父とこねれば

main doeuvre
main doeuvre
oeuvre
oeuvre

前から気になっていた白神こだま酵母。

たまたま地元の図書館に行ったら、「わたしを借りるのだ」 と言わんばかりに本が目に付くように棚の一角から飛び出ていた。

近所のスーパーで白神山地の水が2ℓ100円で売っていた。

買って帰ってきたら、注文していた酵母が届いていた。

そんなわけで、父を誘い、パン作り。

やはり、餅は餅屋、料理人はパン屋ではないものの、 手つきは匠だ。

ベンチタイムに、料理がテーマの映画について父と話していた。

「歴史は夜作られる」は、まだ見ていない。

パンは4時間はかかるものと思っていたのに、 粉、水、ほんの少しの砂糖と塩、そして豊かでやさしい酵母のおかげで、 3時間ほどでパンが焼きあがる。

初めてだったから段取りに少し手間取ったけれど、慣れれば、なるほど2時間で完成できるシンプルさ。

必要最小限のものを使ったパンは、手ごたえと弾力があって、 かむほどにおいしい。 いろいろなものを混ぜに混ぜて、原型はいったいなんなのかわからない 叶姉妹のようなパンが巷にはあふれているから、 知らず知らずそれに慣れてしまっている舌は、 このパンを食べたとき、確かに戸惑う。

両手放しで「んぅーまーいー!」と叫ぶようなものではない。 弾力があるけれど噛みごたえもあるから、 みんな無言であごの運動を続ける。 それから、ため息をつくように、 うまい、と言ってしまう。

秋田の冷気を知っている酵母は、冷凍にも強いから、一次発酵を終えた段階の 生地を冷凍しておくことができる。

焼きあがったパンはやさしく温かい。

ブルーVSレッド

ジズゥを前にしては、中国もやりづらかっただろうなぁ。あの美しき足技がもう見られなくなると思うと残念。人間国宝です。

それにしても、試合開始からわずかな時間で足をぐにぇっとやってしまったシーさん。 タンカで運ばれる姿は打ち揚げられた新種のアザラシのようだった・・・。 あの刺青がうねる鬼神のようなボディに立ち向かわなければならないはずだった各国の選手はホッとしているかもしれない。

解説の人が思いっきり「韓国チーム」と言っていました。 その間違いは黄カードものです。 マクベスその②を書こうと思いましたが、パスカルとヴォルテールにちょっと用事ができてしまったので、そのうちまた。

罪を憎んで人を憎まず

喧嘩、戦争、テロ、言い争い、決闘、自殺、エトセトラ。を、全て生クリームケーキのぶつけ合いにしたらいいのではないか。

絶対、争う気をなくす。

マジでぶつけても、お互い白い髭の顔を見たら、笑わずにはいられない。

会社で上司に切れて、「部長、失礼します!」と生クリームを顔に投げつける。

ニュース

「本日ガザで大量の生クリームを積んだ車が路上で無差別の生クリーム攻撃を行い、路上は淡雪のごとく白色で埋め尽くされました。」

「サッカーワールドカップ会場で、審判のジャッジに不服を訴えるために全裸の男が両手に生クリームのタルトを抱えてフィールドに乱入し、一時試合は中断されました。」

派出所には 「本日の事故・死亡」のボードの下に新たに「生クリーム」という項目が付け加えられる。もちろん、常備の生クリームが派出所の冷蔵庫には置かれている。

昨日の弁当がまずいと妻にうっかり言ってしまった。 今日弁当箱を開けたら生クリームだった。 隣の田山君に「おっ、先輩、奥さんですか?宣戦布告っすね!」と冷やかされる。 売られたけんかは買うぞ俺は。 今日は妻の好きなショートケーキを買って帰ろう。

ふられた。試験に失敗した。親はちっとも気持ちをわかってくれない。 あたしは何のために生きているの? 能力も魅力もない。特技もない。周りはみんな楽しそうなのに。 友達もいない。 あの人のそばで生きられないなんて、この先生きている意味がない。 もう、生きているのが嫌だ。 生クリームを買ってきて、一人、あわ立てた。 ゆっくりタルトに塗りたくる。 タルトを持ち上げ、目をつぶると、 自分の顔に押し付けた。

ここまでやっているうちに、馬鹿馬鹿しくはならないだろうか。 生クリームまみれの自分の顔を見て、 笑ってもう一度やり直すか、と思えはしないだろうか。

。。。。。。。。。。。。。。 「食べ物を粗末にするな!」という投書が必ず現れそうだし、乳製品の値が高騰しそうだけれど、武器作る金と暇があるならできないことはないんじゃないか。

目的は「ストレスを開放して相手を攻撃する気を失くす」。

それには、やはりビジュアル的に非常に間抜けな要素が必要だ。

怒り、というのは不安から出来上がっている。 自分の価値観通りに相手・世界が動かないというイライラは、 「己が罷り通らないという不安」に根ざしている。 不安だから攻撃し、攻撃されるから不安になる。 それを消化させるには、攻撃していることがあほらしくなるという状況が必要だ。 プロバイダー「ワナドゥ」がフランステレコムに完全統合されてオランジ(橙)という名前に変わった。元のままのアドレスを続行できるけど、どっかで漏らされたらしくて毎日英語のスパムがうるさかった。自分の脳内麻薬だけでも十分ラリって困っているのに、余計なヤクはいらん。 この際だからアドレスを変更して、ついでにオランジのナビゲーターをダウンロードした。 見事に失敗して、接続環境もろともおしゃかに。

原因はOrange側のいい加減なシステムがWindowsにブロックされたか、もともと欠陥があったか、とにかく、半歩踏み出したら5歩下がってしまった。朝9時ごろボカンとやられ、復旧したのは午後3時・・・ 現在一番古いシステムで稼動。

フランステレコムにはネット関係で毎度多大なる迷惑をこうむってきて、 本来なら必要のない苦労や騒ぎのはてに

「C'est la vie」

(「それも人生さ!」というフレンチ常套句。このひとことを肩をすくめて言われると、首をしめたくなる)

で話をまとめられたりするので、そのたびに黒い憎悪が沸き起こっていた。 そんなやり場のない苛立ちを浄化する方法を考えていましたが、 この生クリーム攻撃は、本当に効きます。

考えてるだけであほらしくなってきたので、フランステレコムに復讐するのは今回は見逃してやろうと思いました。 今後、イライラしたら生クリームをぶつけることを考えて憂さ晴らしをしようと思います。皆さんも、日ごろの鬱憤は生クリームで。

セレブなpeople

2時間のラテン語のテストの後、活用が頭の中をぐるぐる駆け回る。

それにしても、こんなに覚えなくちゃいけないシステムがたくさんあって、 しかも「例外」だらけという言葉を使っていた人たちのことを考えると、 いつも、彼らは果たして頭が良かったのか、それともとんでもなくあほの集団だからすっきりシンプルな形を造り得なかったのか、 どちらだったのかなぁと気になる。

ラテン語からフラ語への移行期の文章なんてもう 収拾付かず、それぞれが「これが俺様流」と主張し合い、 表記と発音の折り合いが付かずに、わけのわからない振り仮名のようなものまで現れていた。

ラブレの原語版(?)なんて

「あのーこれは何語で書かれているんですか」

と思わず言いそうになる。

パリの人々は、田舎もんとの格差を測ろうとへんな語尾の発音を開発して、フランス語は余計に混乱を極める。

「oi(オワ)」という音とか、半過去の語尾の特徴/e/(エ)という発音を「オエ」とか「ウエ」/we/とか不気味に発音して悦に入っていたらしい。

サルコジ流に言うと、「discrimination "inutile"」。

パリジャンは今も昔もやる事が幼稚。 パリジャンに関わらず、自称「最先端」から発信される言葉って、「恥ずかしくないのか、それ?」というものが多いです。「セレブ」など。ちなみにフランスでこのセレブを表現したいなら「ピープル(people)」と言ってみよう。丁度同程度の発想です。

えーと、なんでラテン語の話していたのに、セレブの話になっちゃったんだろう。 後は明後日の英語で一応試験は終わったことになりますが、 追試、何個食らうことやら・・・去年の11個よりは少なければいいんだけどなぁ。 それにしても、なんだってこんな酔狂なことを始める気になったのやら。 よくやるよ、私も。

ラテンなピープルと対等に馬鹿を競える自信あり。

詩歌

Vu le soin ménager dont travaillé je suis,

Vu l'importun souci qui sans fin me tourmente,

Et vu tant de regrets desquels je me lamente,

Tu t'ébahis souvent comment chanter je puis.

Je ne chante, Magny, je pleure mes ennuis,

Ou, pour le dire mieux, en pleurant je les chante,

Si bien qu'en les chantant, souvent je les enchante :

Voilà pourquoi, Magny, je chante jours et nuits.

Ainsi chante l'ouvrier en faisant son ouvrage,

Ainsi le laboureur faisant son labourage,

Ainsi le pèlerin regrettant sa maison,

Ainsi l'aventurier en sangeant à sa dame,

Ainsi le marinier en tirant à la rame,

Ainsi le prisonnier maudissant sa prison.

Les Regrets,sonnet 12, Joachim Du Bellay

我が労する雑務を見、

我の限りなき煩瑣を見、

我が止め処なき憂いを見、

君驚くは我如何にして詠い得るかと。

我は詠わず、マニィよ、我は泣くなり我が憂愁を、

より明らかに言うならば、我泣きながら憂を詠う、

我然と詠うなら、憂いは詞花と咲き誇る、

然れば、マニィ、我はひねもす詠うなり。

我は詠う、職人の匠がまにまに歌うごとく、

農夫の下ろす一鋤の合間にもらす声のごとく、

はるか我が家を口ずさむ行人の落す涙のごとく、

追憶の麗しき人を浮かべてはため息止まぬ情人のごとく、

波間に歌う船頭の押しては曳ける櫂のごとく、

虜の男が牢の内己が不運を呪うごとく。

「哀愁」ジョアキム・ドゥベレ ソネット12より 仏語邦訳まり

 

ドゥベレはルネッサンス期の詩人ですが、 今読んでも決して古臭くない。

親戚に当たるジャン・ドゥベレに同行してイタリアで約4年を暮らす中で、 ジョアキム・ドゥベレはフランスを懐かしんで止まない。

なぜ自分は外国に虜にならなければならないのか、 仕事はつらく、フランスにいる友、 マニィやロンサールなどの仲間たちが恋しく、 庇護者であるマルゲリット・ド・フランス(アンリII世の妹)は遠く、 彼は常に義務と郷愁で揺れている。

そうして、ああ、哀しいよと言う声が、詩を作り出す。

職人さんが口ずさみながら仕事を仕上げるように、 お百姓さんが土を耕すように、 船頭さんが波しぶきの中、舟歌を歌うように、 そして牢内の男が囚われの身を嘆くように、 「詠っているのではない、泣いているんだ」という彼の悲しそうな笑いは、なんだか透き通って見える。

時代はめぐり、インターネットに電話にと情報には不自由しない現在にあっても、彼の哀しみの歌は読み手の心に一陣の風を起こす。 感情が、感情の揺らぎを超えて発された時、それはもう感情ではなく 芸術になる。

転職志願

夜のニュースで、コメルス・エキタブル(「フェアー・トレード」:アジア・アフリカ・中南米などの「第三世界」と呼ばれる国のコーヒーやチョコレートなどの生産者に対して「第一世界」の関連産業がミニマムの商品価格を保障し、消費者が浮いた分を負担する商法、また活動する非政府団体のこと)から得た仕事で助かっているという人たちが、手作業や最低限のマシーンで汗水たらして縫ったり叩いたりかき回したり焼いたり詰めたりしているのを見ていると、書いたり読んだり考えたりして偉そうにしている自分が情けなくなる。

まぶしい。

文学は人間の生活に必要だなんて言ったりしているけれど、 実際何かあったとき、確実に生き残れるのは 言葉を操るひとではなく、 自分の手を使って仕事をし、生産している人たちだと思う。

お百姓になればよかった。

グロテスク趣味

2日前から比較文学「中国におけるカフカ」の小論文にかかっている。

カフカの「変身」「審判」「父への手紙」と 残雪(Can Xue ツァンシュエ)の「Dialogue en paradis(天国での対話・邦訳されているらしいです)」 の比較なんですが、小論文のテーマは残雪の作品の翻訳者が述べていた作者の描く「家族」について。

これが、またえらいややこしくて(この人の残雪作品の訳文もややこしい)、参りました。

フランスの大学で出題される小論文というのは、一般的日本的教育を受けてきた私にとっては、その構造を理解しようとするだけで魂が抜けそうになるのですが、与えられる問題というのがまた2ねじり半くらいのヒネクレっぷりなことが多いのです。

そんな風に、「ちょっと頭をねじらないとわからない」という盲点を突く文章を理解し、 「ちょっと頭をねじって書かないと丸め込めない」という文章を要求され、 なのに、フォーマットはあほみたいに融通が利かない。(※万が一、この「あほみたいなルール」を知りたいという好奇心の旺盛な方はずずぃっと下の方まで。

この、囲いの中で「自由に羽ばたけ!」と言われているかのような文章修行をここ1年半ほどやってきて、やっと自分の考えがなんとなくフラ文のトリカゴの中で落ち着いて、むやみに暴走して駕篭をぶち破ったり、はみでたりすることが少なくなってきて、ちょっと、つまんなかったり。 どうせなら、わたしの小論文も作者たちに敬意を表して思いっきりグロテスクなものにしたいところです。もう、読んでいるだけで「うえぇ」となって、先生も採点どころじゃなくなるような。それで減点されちゃったりして・・・。

グロテスクって確かに黒い笑いを含みますが、その配分によっては笑えなかったりします。その辺、カフカはやっぱり天才的。

今回の出題文の中に、ジェローム・ボッシュという15世紀の画家が出てくるのですが、それはもうおどろおどろしい絵(クリックすると、代表作「最後の審判」が開きます。うえぇ・・・となりたい方はどうぞ。)をお描きになっていたようで、 そのグロい絵を眺めては難解な出題文を何とか解きほぐそうとしていたら、だんだん私の夢までなぞの生き物が出てくるようになって来ました。 このまま行ったら残雪のような小説が書けるかもしれないです。

残雪のカフカ論の邦訳が出たそうなので、そのうち読んでみたい。 同時に、やはり現代中国人作家の余華(ユーファ)という人の「世事は煙の如し」という作品の抜粋についての分析も提出しなくちゃならないんで準備をしているのですが、これまたグロテスクつながりで、ちょっと不思議な連続死の話。水が「死」を象徴するエレメントとしていろんな場面で出てくるのですが、色々考えていたら、変な津波の夢を見てしまった・・・。 わたしはすぐ影響を受けるバカが付く素直さんですが、夢にもすぐ影響がでるのが笑えます。

 

※石頭な小論文のルール

大抵、出題される問題は、テーマになっている作品に関する誰かの批評の抜粋になります。要は、ヒネクレ文には必ず一発では理解できないような内容が組み込まれているので、その曖昧さを指摘して、自分なりの解釈を使って読み手を丸め込む、口八丁の訓練です。

一、イントロでは必ず出題文を「丸ごと一字も変えずに」書き入れるべし。

一、展開は必ず3つの章に分け、イントロ部分でその3章の展開内容を予め述べるべし。

一、第一章では争点についての論証①を展開するべし。

一、第二章では、争点についての論証①に反駁でき得る論証②を展開するべし。

一、第三章では、争点についての論証①と②とは別の観点での出題文に関するアプローチを試みるべし。

一、全ての論証には的確な例を挙げるべし。

一、結論では、3つの展開を5,6行の文章で要約すべし。また、ここで新たな例を挙げるべからず。

一、結論では、主題になっている作品・作者に関連する参考作品(同作者・または別の作者・同分野・または他分野)を挙げるべし。

以上。

このルールから一歩でもはみ出すと、たちまち減点を喰らいます。 こういうことを小さいときから訓練されているフランス人に、万一、口で勝てたとしたら、相当有能な弁護士にでもなれる素質があるとかもしれない。

ちなみに、フランス人の自称「恥ずかしがりや」=「思っていることをはっきり表現できない口下手」とはならない。

日本語、外国語、落語。

円楽さん笑点引退関連ニュースを速報してくれた、友人・家族・その他の皆さん、どうもありがとうです。

外国で暮らしたことがない人、またはうちの父のパリスタージュ時代ように、手紙か国際電話しか日本とのコンタクト手段がなかったという経験のある人は、わたしが日本のニュースを知っていることにかなり驚くらしい。

大きい地震とか台風とかのニュースなんてラジオでもやるから、誰よりも先にフランス人の友達に「日本で地震だってよ!」とか言われたりするってのも、なんだか面白い。

先日台湾の方から、CORに仏文に関してのメールを頂いた。 同じアジア出身ながら、言語の違いもあって、本来なら個人的にはこんな交流などめったにない状況で、こんな風に共通の話題、共通の言語を使ってコンタクトをくれる人がいるということに、なんだかぐらりときた。

フラ語なんかやってる場合じゃないなー。英語だなぁやっぱり。 などと、現在製作中のいい加減な英語の課題を眺めながら、ためいき。   

翻訳という仕事をやりたいと、落語を仏訳したときに思った。 誰もが考えるように、文学作品の日本語から仏語への変換は4、5年程度の訓練じゃ難しい。 だから、逆を考えるわけだけど、 日本は戦前から本当に一生懸命海外のものを取り入れて取り入れて、 今もう飽和状態に近いんだと思う。

しかも、著作権の問題で、勘違いの翻訳を頑固なまでに抱きかかえて、カチカチになっている。 そして、その邦訳をなめるように吟味して、言葉尻を議論している。 以前居た劇団でシェイクスピアをやるときには、いつもそれにうんざりした。

なにか、完全にずれたところで足の引っ掛け合いをしているような感じが拭えない。 確かに著作権は保護しなければならないけれど、翻訳に関するものは、別に考えるべきだと思う。どう考えても原文とは違うのでは、という訳が60年も70年もそのまま受け継がれるのは、作者にとってもありがた迷惑なだけだ。

一方で、勤勉家な日本人諸先生方が、もうあらゆるクラッシックなナンバーは訳し尽くしてしまって(その訳が言いか悪いかは別として)、訳す物がなくなっている、という状況。 日本は外国製品にもう飽和状態なのに、まだ「デザートは別腹」などと言いつつ、うろつきまわっている。

今、フランスに限って、回りを見回しても、日本製品ほどよくできたものはない。フランスで作られる服(オートクチュールは別として、普段着るものということ)、フランスで食べられるお菓子、フランスで流行っているもの、どれも、今日本で手に入るものと比べても雲泥の差があるわけではない。 もう、新しいもの、ではないんだもの。誰にでも手に入ってしまうもの、なんだもの。 フランス人は、気づいていない。けれど、無意識に色々と日本ではやっているものを真似しだしてはいる。

心の中では、まだ自分たちが一番だと思いながら。

日本人の大多数もまだ、フランスは真似すべきおしゃれが見つかり、真似すべきお菓子を習いに行き、真似すべきライフスタイルがある場所だと思っている。「フランス人のマダム」はすてきだと思っている。(素敵な人も、どこかにいると思うけど・・・)   

知人より、この間の歌丸さんの公演がきっかけで、ある二つ目さんが海外公演に付いていく事になって、英語で落語をやるんだって、という話しを聞いた。 わたし個人の感想としては、 日本語以外の言葉で語られる落語は、気持ちが悪い。 (フランス語だったら、もっと気持ち悪いと思う) しゃべる言葉には、それに相応しい顔と態度がある。 発音が顔の造りを形成し、その造りだからその発音が可能なのだ。

わたし自身、フラ語を発音している時の顔は日本語を話しているときと全く違う。そうしなければ発音できないのだから、唇の筋肉も発達するし、顔だって変わる。 しかも、母国語でない言葉の発音の上手下手は、その人の聴覚の良さ、絶対音感があるかないかで決まってくるわけだから、何年やっても綺麗な発音ができない人がいれば、どこでどんな音を出しているかというメカニズムを把握できて、すぐに同じ音を出すことができる人だっている。 そういったことをすっ飛ばして無理してやったって、不自然さに負けて、気持ちが悪さが残ってしまう。

外国で、外国語で語る落語が、国内で日本語で語られるよりも「ステータス」が高いという、その風潮は、やっぱりこれだけお腹一杯の日本でも 未だに「海外上位志向」が根強いという象徴のような気がする。そんな落語を見るのは、ちょっと嫌だ。 海外口演に反対なのではなくて、むしろわたしはそういった海外口演の一つをでっちあげようとしているのだけれど、

「落語は、日本語を理解する人が、日本語で聴いて楽しいものです。」 ということを、海外で興業を行うときでも感じている必要があると思う。

その上で、他の言語を使う人に対して、どういったアプローチをしていくのかが、その会の良し悪しを決めるんじゃないかな。

Allez au boulot !

授業再開したものの・・・3コマのうち2つは先生欠席(うち一人は早めのヴァカンスへと出発とか)。

残された生徒には山のようなコピー・・・そして、鬼のような提出課題。

入り口には強面ながら笑顔のガードマンが仁王立ちし、学生証を見せないと入ることができない。

それもそのはず、日曜夜にはしぶとくブロックに関わっていたアナーキストたちがパンの自販機(今年導入したばっかりだったのに・・・)を燃やしたりとかなり自体は緊迫していた。大学連盟側はもはやお仕置きもやむを得ずという判断を出した。

もっと早く動いてくれよ・・・。 何はともあれ、すっかりディクテの能力がなまってしまって、まずいです。

A la nuit de la résurrection, je pense à mon ami.*

Tu ne me vois jamais, Pierre, que tu ne die

Que j'étudie trop, que je fasse l'amour,

Et que d'avoir toujours ces livres à l'entour

Rend les yeux éblouis et la tête alourdie.

Mais tu ne l'entends pas : car cette maladie

Ne me vient du trop lire ou du trop long séjour,

Ains de voir le bureau, qui se tient chacun jour :

C'est, Pierre mon ami, le livre où j'étudie.

Ne m'en parle donc plus, autant que tu as cher

De me donner plaisir et de ne me fâcher :

Mais bien en cependant que d'une main habile

Tu me laves la barbe et me tonds les cheveux,

Pour me désennuyer, conte-moi, si tu veux,

Des nouvelles du pape et du bruit de la ville.   

Sonnet LIX Les Regrets de Joachim Du Bellay

そんなにわたしを見ていないだろうに、ピエール、お前が言えるほど

わたしが過労で、恋に身を焦がしているなんて、

常にこんなに本に囲まれているから

両の目がぐるぐるして頭が重いのだろうなんて。

ああお前はわかっていないよ。だってこの病は

本の読みすぎからでも長すぎる滞在のせいでもなく

仕事場があるからなのだから、昨日も今日も明日にも。

これが、わが友ピエール、わたしが身を削っている「本」なのさ。

だからもうその話題はよそう、お前がいみじくも

わたしに心地よさを提供し、不快にさせぬというのなら。

けれども、いいかい、その慣れた手つきで

わたしの髭を洗い髪を刈る間、 退屈せぬように、話しておくれ、よかったら、

法王についてのニュースと世の喧騒を。    

ジョアキム・ドゥ ベレ 「後悔」よりソネット59

* Le titre "A la nuit de la résurrection, je pense à mon ami" appartient à diurnalem. 日本語訳、タイトルの「復活の夜に友を思う」はdiurnalemのオリジナルです。

デット・オア・アライヴ

姉さん、事件です!

わたしが飛行機の切符奪取のために打ち立てた背水の陣は11日の学部のAGで排水に流されたはずだったわけで。ここに来てまたもや状況は流転なわけで―

今日学長が出した明日の緊急投票: 質問です。あなたはブロキュス続行に賛成ですか?

Yesの場合。 あなたの選択は正しい。 なので、ごほうびに4月18日から21日までと、5月9日から6月3日までの補習授業を与えます。 試験は6月6日から16日まで。 一学期の追試は6月19日から23日まで。 2学期の追試は8月28日から9月5日まで。

Noの場合。 あなたの選択は間違っています。 罰として、ディプロムをあげません。

 

をわ!!!

 

これって投票じゃないじゃん、脅しじゃんか。

「Yes or Yes」の投票、しかも11日の時点で学部で決定されて発表されたことが丸ごと覆されている。

どう考えても、学長の一存で決めたことのようにしか思えない。 ちょっと、この横暴な決定は温厚な黄色人種でも怒りをおぼえるぞ。 巻き込まれた人間のことを何も考えてないじゃんか! (ていうか、わたしは9月5日まで日本なんだぞ!)

それよりも、最終的な成績が出る前から1学期の追試が始まるって、どういうこと?

しかも、2学期の成績が9月にはっきりするってどういうこと?

明日の投票、すでに学生たちはぶち壊しを呼びかけているわけで、 もうどうなるかさっぱりわからないわけで。 学長の一存で「証書は出さない」って、合法なわけ?