心にじんとくる作品やことばは その人の知識ではなく その人の日常が作る。
日常、 当たり前のことを当たり前に でもありがたさを感じながら行っていくと、 地に足がつく。
木のように。
幸せの花が咲き、そのこぼれる香に 同じように花を愛でる人が立ち止まるだろう。
日々是々 フランス語とわたしの冒険
心にじんとくる作品やことばは その人の知識ではなく その人の日常が作る。
日常、 当たり前のことを当たり前に でもありがたさを感じながら行っていくと、 地に足がつく。
木のように。
幸せの花が咲き、そのこぼれる香に 同じように花を愛でる人が立ち止まるだろう。
J'ai attrappé un petit rhume...
Mon nez me semble gonflé comme lune,
Il faut aller au lit,
Comme un oiseau dans son nid.
赤いものが、奥の方でじんじんしています。 ああ、ふらふらしてきた
韻を考えている場合ではなく、寝ないと・・・ のど痛・・・
ぽたり ぽたり
ぱらぱら
ぱたた
ぱたた
ぱたり
ざうわざうわざうわ
ぼぼぼ
ぼぼぼ
ぼぼぼざざぱた
朝 生暖かい風に乗って水滴がアスファルトに脈絡のない足跡を残していく
この感覚を知っている、意識の底がこそばゆい
夜 空が騒がしい 雲が駆け集まってくる
また風が吹いた
この記憶をくすぐる感覚が解けたとき、たぶん人はプルーストを経験できるんだろうなぁとトラムを待ちながらぼんやり思った。
プルーストといえば、昨日のケーキはおいしかったなぁ。 (この場合、プルースト→マドレーヌ、という連想ではなく、昨日お茶したときにケーキを食べながらプルーストの話になったのです)
フランスのサロン・ド・テは、むしろサロン・ド・ガトーです。お茶はどうでもいい。 (というお店が多い)
Sさんごちそうさま。
林檎の中で一番好きな種類・カナダ・グリ(Canada gris)。
渋い色、ごつごつした可愛いとは言えない外見、甘さより酸味が強く、さくさくというよりほくほくしている。
秋から春まで、今年もりんごの季節がやってきた。
赤や黄色の華やかでジューシーな林檎が並ぶのを横目に、 無愛想なカナダ・グリをせっせと袋に詰める。
ここ数日気を取られていること。
パフォーマンス力・表現意識と虚栄 デコーダ力 思い 感じること 聞くということ。 正面から見つめるという勇気。 正面に立ち、耳をすますということ。 当たり前のことを繰り返すこと。 日常。
『解る』が『別る』に
『いい』が『どうでもいい』に
『想い』が『重い』に
『見える』が『見栄る』に
光が当たる場所しか、人は見ようとしない。 その光は、ぐるり海を照らす灯台の明かりのようにとどまるところをしらない。 けれど光は、どっしりと海を見下ろし、決して動かない灯台から発せられる。
「明暗」が絶筆で幕を閉じた理由をなんとなく感じた午後。
En France, ce qu'il y a de plus national est la vanité. Sachez-le bien : de toutes les blessures, celles que font la langue et l'oeil, la moquerie et le dédain sont incurables. Honoré de Balzac, Le Cabinet des Antiques
「フランスで、『お国柄』の最たるものと言えば虚栄である。」 「知っておきたまえ、あらゆる種類の傷の中でも、舌による、そして目による傷、つまりあざけりと軽蔑は癒えることがないのだ。」 オノレ・ド・バルザック 「ル・キャビネ・デザンティック(骨董棚)」より
*邦題知らず 邦訳 : mari
太極拳は武術のひとつとされていますが、私のお師匠さまは「舞い、ダンスです」という。
陰陽のすべて、この世界にあるもの、海や山になびく雲や動物、空、海底、木、すべてを表現していると、私には感じられる。
でも武術であるから、型のひとつひとつは『敵』に向かったときの動作を考えて作られてもいる。
当然、こぶしを作ることが何度かある。こぶしは、でもすっとすぐに解かれてしまう。
初めは、先生がほとんどこぶしを作らないのを見て 「ああ、この人は本当に争いが嫌なのだな、どんな場面でも争うことを自分に許しはしないのだな」と思った。 それで、私も作らないでいた。
つい最近、稽古をしているとき、自分のこぶしがぱっと開くのを見て、 「こぶしがあることを忘れてはいけないのでは」と思った。
人はこぶしを作ることができるということ、そこから目を背けるのではなく、それを知った上で、こぶしはいらないと自分の意思を表現することなのかもしれない、と思った。
それで、少ししっかりこぶしを握ることにした。そして、そのこぶしを開く瞬間を前よりもっと大事にするようになった。 自分の幸せを願うのと同じくらいみんなの幸せのために舞うことができればいい。 ありがとうございます。
イガイガ・・・胸の中がイガイガでいっぱい・・・ どうしたら、わかってもらえるのだろうか わたしはわたしであるけれど わたしはわたしでないと 以前のわたしではないと どうしたら感じ取ってもらえるのだろう
On ne parle pas la même langue...
bien qu'on en possède la même...
ひとはつながることができる。 「けれどその心は、すぐに切れてしまうこと、このことの方が大事な気がします」 だから、結ぶのです。結ぼうと努力をするのです。
そうか・・・ 彼女に感じ取ってもらうのではなく、わたしが感じるのだ。 人はそうそう変わるもんじゃないと思っていたけれど、わたしは事実変わった。 変わった、というより、前と同じではない。
たくさんのものから手を離した。
やりたいことを探すのではなくて、できることを探すことにした。
自分にとって大切なものが変わった。
本当の何かは、目にははっきりと現れないことが多い。 友達が以前の私だと私を見つめるのに戸惑う。 私は以前の価値観を持っていない。
憤ることがあっても、私は憤りたくない。
怒りが沸いてきても、私は怒りたくない。
争いごとが起きても、私は争いたくない。
私の心が嘆いても、私は嘆きたくない。
私は不安を捨てた。 わたしは以前のわたしと同じではない。
それに気づいてもらいたくて、イガイガとしている。
そういう私を感じている。
ここ最近「危険な関係」でcorを訪れる方が増えているのですが、 なんかあるんでしょうか。リメイク版でもやるのですか?
最近はテレビもラジオも新聞からもできるだけ遠ざかるようにしようと努めています。 「情報社会」の申し子世代としては、非常に勇気が居ることです。 さらに、外国に居ることで母国と切れるような不安もあります。
でも、今、世の中で流されている情報は大半がただ垂れ流しているよだれ情報ばかりで 新聞を見ても怒・恨・悲・叫・・・最近は、そういう物に接していることができなくなってきました。とても薄い空気をはかはかすっているような気がして、苦しくて苦しくて居られないのです。 本当に自分にとって必要な情報は、私自身が自分と話し合ってしっかりとアンテナを立てていれば落っこちてくるということがわかったので、蟻地獄のように待っています。うひひ。
一言、「危険な関係」に付け足し。ラクロの原作「Les liaisons dangereuses」のリメイクで秀逸なのは「Valmont(ヴァルモン)」。
以前ここで紹介したロジェ・ヴァディムのものより、遥かによくできています。ミロシュ・フォアマン(「アマデウス」の監督)、コリン・ファースにアネット・ベニングだもんなぁ。
フランスのXVII世紀の様子も社会階級の高低それぞれの暮らしも丁寧に描かれています。 最近あまり映画を見る時間がなかったのですが、ジャン=ピエール・ダルッサンの新作「Le pressentiment」(予感)は見に行こうと思っています。 この癖のある俳優さんは、なぜかとても気になります。
古代ギリシャ劇史の授業をまとめるのに次から次へと登場人物を調べているのですが、何せ芋づる式にドロドロとこじれた関係が出てくるので止まらなくなります。 このなんでもありの激昂型祖先たちに比べたら、ヴァルモン-メルトゥイユの関係なんて青臭く見えてきます・・・文学っていうのは、はじめにインモラルありき、なのかも。
You tell me that you've got everything you want
And your bird can sing
But you don't get me you don't get me
Ils sont extra. C'est ce que je peux te dire.
「あなたに愛されるか、死ぬか、 どっちかしかないの。」 トイレのドアのTag。(携帯で取ったのでちょっと画像が悪いです) そんなこと、思ってたときもありましたなぁ。 世の中二択じゃないとわかって、生きるのがもっと楽しくなっている最近。
時々、宇宙の中で一人ぼっちになる。 どっちへ向かったらいいのか、わからなくなる。 それで、どっから来たのか考えてみる。 何を選んだかは、本当はあまり関係ないのかもしれない。 自分が何者なのかも、本当はどうでもいいのかもしれない。 結局、一緒のところに還るのだから。 だから、そんなに心配しなくていいんだよ。
謎夢は続くよどこまでも。おとといは欽ちゃんに振られる夢を見た。なんでそーなるの!?(ちなみに小さいとき、私は次郎さんの方が好きでした)
今学期は比較文学で「ペローのContesとインドのお話パンチャカントラ」を取った。 いきなり最初の課題でCendrillonのオリジナル版とヴァージョン・ポワティヴィンヌ(ポワティエでポピュラーだったヴァージョン)の比較について一枚。 いわずと知れた「灰かぶり姫」のお話です。フラ語では「サンドリヨン」と発音します。 しかし、同じシンデレラでもこんなに違う話にしていいのか?と言う位違う。 ポワティエ版では「サンドロゥーズ」と名前まで変わっている。継母は出てこない。灰かぶりちゃんは、3人姉妹の3女で、あんまり外に出歩きたがらない。 魔法使いのおばあさんはカットされているので、かぼちゃの馬車やら12時の約束やらは一切出てこない。
では、サンドロゥーズはどうするのかというと、パパが市に行くときに「胡桃を買ってきて」と言う。そんで、その胡桃を開けると「シンデレラグッズ」がじゃじゃーんと出てくるのです。 で、準備万端、王子様の待つ舞踏会へ・・・いやいや、サンドロゥーズちゃんが行くのは教会のミサずら。
そんでもっでは、サンドロゥーズつぅ娘っこは教会さ行っで、靴ばかだっぼおどしでくるでさ、たまたま寄った王子さんがよ、靴の持ち主さ探すべよ、ではぁ、さんどろぅずは「そっだ靴はおらのだべ」つぅて、ほんでよ、王子さんと結婚すんべ、結婚すんべつぅんで、二人っしていっちまうべさ。めでだしめでだし。
そんなわけで、ポワティエ版を読んでいるとどうも話が田舎くさくなってきて、なまらずにはいられなくなってくるのです・・・。主人公の名前も十分田舎くさい。
結局、当時の女の子たちの「いつか王子様と」という願望を「ありそうな話」に書き換えたら、魔法カットのリアリストにならざるを得なくなり、しかもそれでは話の辻褄も合わず、中途半端に胡桃登場・・・当時の女の子たちの中で胡桃がブームになったりはしなかったのだろうか。
ペローは「長靴をはいた猫」や「赤頭巾」「青ひげ」などの童話で有名ですが、 実際は、結構血みどろな話が多い・・・「青ひげ」なんてホラーです。ブルブル。 赤頭巾ちゃんは食われっぱなしだし(オリジナルでは親切な狩人さんは出てこない)・・・そして、「ロバの皮」なんかを見ても、倒錯愛、偏愛、タブー・・・ ペローはマゾの気があったんじゃないか、というか、苦境にもだえる女が好きだったのでは、と思える。 やはりフランスは変態万歳の国だ。
Hé, peux-tu m'amener chez toi, s'il te plaît ?
Euh...mais...
Écoutes, t'es déjà venue me voir hier soir, n'est-ce pas ?
C'est pas par hasard que je suis ici un peu fleurie.
Mais voyons...si j'en suis capable...
Oh, ça suffit, pas de coquetterie !
Mais oui, tu m'amènes, tu me prends, c'est décidé. Allez, hop! ...Eh, sérieusement j'ai besoin de tes aides. Je commence à sécher, moi. Si on rentrait tout de suite ? S'-il-te-plaît !
Oui, d'accord, j'ai compris, ne crie pas comme ça ! Allez, on rentre ! Allez viens !
Et elles s'en allèrent ensemble.
ね、ね、一緒につれて帰ってくんない?
え、でも・・・
ちょっと、あんた昨日もあたしを見に来てたじゃない、ね?あたしがここでこうやって花を咲かせてんのもただの偶然じゃないのよ。
う、ちょっとまってよ、そんなこといっても、わたしじゃ・・・
なーにぐじゃぐじゃ言ってんの!あんたはあたしを連れて帰るの、持ってくのよ、ほら、ね、決まり!さ、ほれ!・・・ね、真面目な話、あんたの助けが必要なのよ。あたしちょっと乾燥してきちゃってんのよ、ホントに。ねぇ、帰りましょうよ?おーねーがーい!
わ、わかったわよ、わかったから、そんな叫ばないでよもう!わかった、帰りましょう、おいで!
そうして、彼女たちは一緒に行きました。
こうして、彼女は家に来たのです。