フランス語を始めたばかりの学生達30人に文法を学ぶことに関するアンケートをとり、その結果をもとに「語学にとっての文法」について考察しています。
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会話ならめんどくさい文法など使わずに、ジェスチャーや気持ちでなんとか通じさせればいい。そもそも、文法なんて実際には使っていないのでは?という点に着目している人たちもいた。
「あるようで、ないもの」 実際に文法というものは存在し、語学を最初に学習するときは必ず勉強しなければならないが、実際に生活で必要になる会話をする場合、いちいち文法のことを考えたり意識したりしないからである。
「自然」 私たちが日本語を話す上で、幼少の頃にしっかりと文法を学んだということはなく、学習したとしても、日本語を話せるようになった後からである。また、日本語を話しているにも関わらず、文法について説明するよう言われても容易でない。つまり、言語を使いこなす上で、文法というものは自然と根底をなしているのだと思うからである。
「言語の成分」 ある語学に精通している者(母国語としているもの)にとって文法は意識されるものではないが、その語学を一から学ぼうとする者にとっては、話す・聴く・書くといった語学の学習は一つ一つの文法という成分が様々な形に組み合わされたものを学ぶことであると思うから。
私たちは、普段日本語で発信したり受信したりする時、意識的に文法のことを考えていない。しかし、本当に「文法なんて習っていない」だろうか?以下は、小学校低学年向けの学習参考書からの抜粋である。
「国語脳ドリル作文王(スタンダード)」(工藤順一・国語専科教室、学習研究社 2007)より「分類作文 わけることはわかること」
「国語脳ドリル作文王(プライマリー入学準備~小学2年)」(工藤順一・国語専科教室、学習研究社 2007)より「コボちゃん作文」
「コボちゃん作文」は接続詞「てにをは(が)」を正しく入れる練習、「わけることはわかること」は品詞ごとに単語を分類する練習をする問題になっている。これを読んでいる方々で、この2問が解けない者はいないと思う。なぜなら、片言の会話ができるようになってから小学校低学年までの間に、すでに何度も間違いを訂正され、正しく使えるようにこのような練習をさせられているからだ。 この段階では、それぞれの練習が「何の」練習なのかは詳しくされないが、中学、高校に入れば、それが「接続詞」であり「名詞」や「形容詞」や「動詞」であることを学んでいるはずなのだ。私たちは、母国語の文法を習っていないのではなく、習ったことを忘れているだけだ。それ位、自然に身に付いて、いちいち考える前に、どれが正しくどれが間違っているかを選択できているから、自分が文法を使っていることに気づいていないだけだ。そのハーフの友達だって、話している時に自分が文法を使って話しているのに気づいていないだけではないだろうか。
このように、私たちは発信したり受信したりする時に確かに文法を使っているのだ。それは やりとりの間にできるだけ齟齬がないよう、自分の意志を正確に伝えられるようにするためのことばの使い方を教えてくれるものではないだろうか。
「ルール」 語学にはルールがあり、それに従えばきちんとした会話が成立します。そのルールこそが文法であり、自分たちを語学学習へと導いてくれるものであると考えます。
そう、文法とはその言葉を使うための「ルール」として私たちを導いてくれる。しかし...
「誘導員」 正直言って文法は面倒なもので、どうしてそのルールに従わなくてはならないのか、と疑問に思うことも多い。しかし文法がなければ語順はぐちゃぐちゃで会話も支離滅裂になりかねない。それを制御するために必要であるからだ。
「型にはまっていて面倒」という印象は、誰もが持ってしまっている。
「形式的なもの」我々日本人が英語圏のネイティブに対して[何かを]尋ねたい時、[中略]例え流暢に英語を話せずとも単語を並べれば[わかってもらえる]。一番大切なことは相手に伝えようとする気持ちであると思います。しかし、フォーマルな場(格式高いレストランなど)では、丁寧な言葉遣いが必須なので形式的であると書かせて頂きました。
「教養」 知識人は正しい文法を使う一方、パリに住むジプシーたちの文法は破綻しています。しかし、両者とも意思疎通はできています。文法を学ぶということは、教養を得ることと同じだと思います。
確かに、文法には、様々な形式・様式(フランス語ではmodeモードと呼ばれる)が分類されている。しかし、それはそれぞれの「型」が使われる時と場合(必要)によって分けられているのであって使う人の社会的ステータスや人格によって分けられているわけではない(結果的にそれらを露呈することもあるが)。
この二者の意見は一つの見方からしか文法というものを見ていないことがわかる。文法というのは「格調高く」「教養のある」「頭のいい人が使う」ものだという見方だ。
単語を並べただけよりも、主語+動詞+補語というルールに従って発せられた言葉の方が「洗練されている」ようには見える。しかし、みなさんの周りにもいないだろうか、驚く程つまらない、下世話な話しか出来ない人が...。それでも、その人はみなさんが理解可能な日本語文法に則って話しているのだ(だからみなさんはその人の話のくだらなさを理解できる)。
それにしても、これらの意見は「単語羅列上等のコミュニケーション」に大きな波紋を投げかける問題発言ではないだろうか。彼らによれば、単語を並べて気持ちで伝えるコミュニケーション方法では「 フォーマルな場(格式高いレストランなど)」には入れてもらえない可能性があるのだから!
この説の裏を返すと、日常的な会話では「正しく」話す必要はない、ということになる。この考え方を、ネイティブたちは受け入れてくれるだろうか?
日本に来た外国人が、「高いレストランに行く時にはちゃんと日本語を話すけど、ちょっとオマエとしゃべる時は適当に単語を並べときゃ通じる。どうせ旅行してるだけだし。」と平然と言い放ったら、みなさんは冷静に賛同するのだろうか?
「パリに住むジプシーたち」の話す言葉にも彼らなりの「文法」がある(なければ意思疎通ができない)。それを「破綻している」と決めつけるのは、「標準的なフランス語から見た場合」という視点からしか見ていないことになる(そもそも、ある言語の使い方が「破綻している」かどうかを決めつけるのは恣意的だ)。もし、「正しいフランス語」を使う人のみが「教養がある」と見なされるとしたら、我々のような間違いばかり繰り返す仏語学習者はみな「教養のない」野蛮人ということになってしまう。
しかしながら、この二者は、私たちに考察の新たな視点を与えてくれた。「話している相手」についてというものだ。
「人との接し方」 人との接し方はある程度形式的なものがあり、常識をわきまえられないものは、まともに取り扱ってもらえないことがある。また一方で、親しい間柄や、目上の人に対してなどは接し方が変わる例外があるのも[文法と人との接し方の]共通点の一つだと考える。
「トビラ」 旅行に行った時、単語[力]だったりリスニング能力があったりすると通じたり理解したりできると思う。でも、文法がしっかりしていないままで自分が話してしまうと、現地の人にとってはずっと「部外者」として見られてしまうと思う。旅行にせよ、仕事にせよ、深く付き合っていくためには文法を[自分の知識の中で]しっかりと確立させていくことが大切であり、交流の「トビラ」だと思ったからだ。
「伝えるためにはなくてはならないもの」 単語だけ並べても言いたいことは伝わらないからだ。私は以前、アメリカにホームステイしたことがある。アメリカに行く前、英語が得意ではない私でも、単語を並べておけば何とかなるだろうと軽い気持ちでいたが、実際にホストファミリーと話をした時、伝えたいことを文章にできず、とにかくバラバラでも単語を並べてみた。おおまかなことくらい伝わるだろうと思ったが、彼女は私が何を言っているのかほとんど分からないようだった。そんな経験から、会話をするにも、文章を書くにも、伝えたいことを本当に伝えるためには単語だけでは足りず、文法がとても大事なものであると思う。
後編に続く