マクベスを一度も面白い芝居だと思ったことはなかった。
ハムレットやオフェリアは演じてもいいと思ったが、 マクベスに興味はなく、 ましてやマクベス夫人なんて断じて望まない。
ところが、どうもマクベスとは縁があるらしく、 去年、大学1年のracines culturellesの中で取り上げられたシェイクスピア作品はマクベス。 そして、今年2年で取った文学とシネマの題材は「マクベスの比較」。 オーソン・ウェルズの「Macbeth」と黒澤明の「蜘蛛巣城」。
最初にBritish Broadcasting Companyの「正統派」版を見たけれど、「あ、あんたがマクベスさんでっか・・・」とうなるような、 泣く子も黙る、ながー い顔をされた俳優さんだったんで、始まったとたんいきなりガッツを60パーセント奪われてしまいました・・・。
演じられている「マクベス」のつまらない理由は色々あるけど、 「マクベス」は夫婦の話のはずなのに、巷で演じられているものの多くはそういう風に見えないというのが一番大きい。 マクベスとマクベス夫人は一蓮托生でもなんでもなく、それぞれが勝手に狂って行くようで寂しい。
そして、常に引っかかるのがマクベス夫人。 このキャラクターは書かれているせりふをただ読んだだけでも変人なので、生の人間が演じると誰も近づけない人になってしまってちっとも情がわかない。こんなコワイ女が趣味なのか、マクベスは?と、マクベスにも情が薄くなってくる。
面長のマクベスは一人悩み、奥さんは一人叫び笑い不気味なテンションで突っ走り、観客としてはひどい顔のアクターばかりが揃い踏みなので、唯一何とか見栄えのするマクダフばかりを追いかけたくなる。 ブリティッシュ・ブロードキャスティング・カンパニーにはもうちょっとマシな顔の役者が居ないのだろうか。
オーソン・ウェルズは、決して「いい男」の顔ではない。
あれは、紙一重フェイスだ。貴人と奇人を紙一重で分かつマニアックな顔。天才は大体そういう顔をしている。
普通の人が自らを「いけてる」と表明するととたんにいけてなくなってしまうもんだけれど、天才はナルシストと相場が決まっていて、そのナルっぷりにはなぜか納得させられてしまう。 イケメンでないがウェルズのマクベスは妙な色気がある。 影の効果で、ひょっとしてこの男はかっこええのではないだろうかとうっかり思ってしまう。どうやったら自分がかっこよく映るか、知り尽くしているんだろう。10歳のときからの演劇キャリアで、自分の鼻の格好が納得いかずにメイクで研究してただけある。
ウェルズはインタビューで「シェイクスピア悲劇の主人公はみんな "salaud" (糞野郎)」だと楽しげに話す。
...C'est un homme détestable jusqu'à ce qu'il devienne roi, et, une fois couronné, il est fichu ; mais, dès qu'il est fichu, il devient un grand homme.
この男は王になるまで本当に嫌なやつなんだよ、で、冠を頂いたとたん、やつは終わってるからね。だけど、終わっちゃった瞬間、彼は偉大なる男になるんだ。
バザンとのインタビューより抜粋 1958年
言い得て妙なるマクベス像。
ウェルズのマクベスが、「偉大なる男」になる瞬間がある。 それは、思わず「あっ」と言ってしまう一瞬のクローズアップなんだけれど、それまで卑怯者の"salaud"であったマクベスが、ビルナムの森が動いたという通報を受けたとき、自ら「fichu(終わってる)」と悟ったのがわかる。 この男、全責任を取る気になったな、というのがはっきり伝わる。 だから「終わってる」けど「偉大」になれる。
自分の上司であったダンカン王、友人バンクォーを殺し、さらには女子供(マクダフ夫人とその子供)にまで手を出す鬼畜さ、それらの罪を人に擦り付け逃げられるだけ逃げ回るものの、自らの罪の意識につぶされるsalaudを極めるマクベスなんだけれど、その人がつぶやく
「あした、そしてまたあした、そしてまたあした・・・」
という声は耳にも心にも残る。 続きはまたあした。