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お昼休憩中。

アトリエInfo.Comの仲間たち(ほとんどがサイトを立ち上げ切れていない)は、みんな目の下に隈が。がんばろう。みんな、寝たらいかんぞ!

朝8時から言語学。来週提出の課題に昨日から取り掛かっているが、文章を読むというより、文章を感じ取ってそれをカテゴリー分けするような作業で、なんだか自分の中に新しい器官ができている不思議な気分になる。

モンド・コンクレ(具象的世界)とモンド・アブストレ(抽象的世界)の臨界点に立っているような感じです。 すごい抽象的な表現ですみません。

多分、カフカ「変身」のグレゴールが変身後初めて後ずさりができるようになるような感覚なのかも。 更に抽象的な例を出してすみません。

フランス人の友達と話していて自分のジョークに爆笑されたりすると、 日本語のときより2割方うれしさが増すような気がします。 これって、オヤジギャグが受けたときのオヤジさんたちの喜びに近いのだとしたら (つまりそれくらい受ける頻度が稀ということ) ちょっとオヤジギャグを連発する人にやさしくなれるかもしれない。

かもしれない。

マルグレ・モワ

差別はしない、と格好のいいことを言っておきながら、次の日思いっきりフランス人は・・・!と嫌なことを書いてしまいました。(その回は封印。)

反省。

 

 

 

 

 

 

(空白行分だけ)

今更言い訳にしか聞こえませんが、段取り上手なフランス人の皆さんは存在します。私の友達たちはみんな段取りが上手い。わたしが一番下手かもしれん・・・。なにしろ、実の親に「尻に火がつかない」と言い渡されましたので。

燃えない臀部を抱えて今まで何とかなってきてしまったから(泣きながらも)、相変わらず段取りの学習をしないんだろうなー。

「サイトを立ち上げよう!」がテーマの4日間のIT合宿は昨日終了したものの、立ち上げられた生徒など一人もおらず、来週の金曜日までに提出となる。 朝9時から午後5時まで、帰ってからも夜中までパソコンに向かいっぱなしでもう目がシパシパ。 疲れて余裕がなくて、与太郎(脳みそ)はもう考えるのを放棄してるし、 久々に頭やかん状態(ショート)。

余裕がないと口が悪くなっちゃうなあ。

Une fourchette qui m'a languéってことで許して欲しい。(この表現が今私の中では旬)

しかも、毎日フラ語で落語と向き合って(私の立ち上げるサイトは落語がテーマです)、中世のロワ・アルチュールもルネッサンスのドゥベレも、中国文学も遠ーくはるかかなたに。 ヴァカンスあと2日しか残されていないって、ひどい・・・。

オンナマエ。

落語DVD字幕付けが大詰めに入ってきた。

0コンマ単位で調整して、どのタイミングでフラ語を入れたら、 日本語で聞いたときの笑いのタイミングとずれないかを測る。

勢い、同じ箇所を何度も何度も見ることになる。 何度見ても、オチがわかっているのに、やっぱり笑っちゃう。 字幕が必要な人にとって、噺家の音声は残念ながらほとんど直接的な意味を持たない。 状況的には聾唖者と同じ状況だと気づいて、 音声を全く消して字幕を追う。 それでも、噺家のほかほかパワーは突き破ってこちらを包み込む。 それを感じて欲しいから、できるだけ少ない言葉で的確に翻訳する。 字幕を追う合間に、ひとつでも多くの表情を見てもらい、 ひとつでも多くの音を感じてもらいたいから。

一緒に笑いたいから。

翻訳をやっているときのわたしは怖いものなしだ。 それは、「笑い」に助けられ、脳みそが麻痺させられるからなのかもしれない。 ちょっとしたトリップ。 これが、最初のステップだ。こっから、うちらはパリに行くんだ。

このごろのモットー: 「女にはやらねばならぬ時がある」

わたしは誰?

風呂急須。ブロキュス。包囲。blocus

。Je sèche, je sèche! Ah, ça m'emmerde!

ナント大学生たちのデモは木曜日に本格的に始まった。 あっちの入り口もこっちの入り口も、机や椅子がバリケードに使われ、 メインの4つの入り口には生徒たちがガードマンのように張り付いている。

今回は「Retrait du Contrat Première Embauche」 ドヴィルパン政府の掲げたCPE (26歳以下のフランス人と20人以上の企業が対象の契約システム) 撤回を求めるデモ。

政府が若者の就職難と失業率を改善するために提案した政策は、 若者の感情をまたもや逆撫で。 ビラを読んでみたが、確かにあいまいな・・・という感じ。CPEも、このデモ自体も。 このCPEは、企業側からの一方的な解雇通告(一通の手紙)で簡単にクビにされてしまうというところが、若者を「俺たちゃ使い捨てかよ!」という気にさせるし、 失業問題で一番取りざたされている「妊娠や人種が理由での解雇」が このCPEでは起こらないという政府側の主張も、 CPEの法規を見てみると解雇については「Pas de motif éxigé」となっている。 つまり、企業側が表立って解雇の説明をせずにクビを言い渡すことができるってことは、「妊娠や人種が理由での解雇」は常にありうるってこと。 表明するか隠すかの違いでしかなくて、問題の解決にはなっていない。

Nantes ma ville.comを読んでみたけれど、そこで面白かったのが、中心になって動いているLe collectif STOP CPE 44のメンバー、ファビエンヌの言葉。

"...Jeunes femmes ne tombez pas enceinte avant 26 ans, sinon dehors. Ne refusez pas de servir le café à votre chef... C'est ça les effets du CPE. Mais c'est à nous d'imposer nos choix." 「26歳以下の女性社員は妊娠するな、それがいやなら働くのをやめろ。上司へのお茶汲みを断るな・・・これがCPEの言ってること。だけど、そういうことは私たち自身が選択することでしょ!?」

うーん・・・これって今の日本と変わらないよなぁ。お茶かコーヒーかってな違い。お茶汲みに反発する女子社員、お茶は入れてもらって当たり前の上司。 確かにフランスの中世から続いてきたいわゆる「騎士道精神」というやつ、 「男たるものはいかなるときも女のために働くべし」は、 細くかすかな声のようにはるかな時代を超えて、彼らの中に受け継がれているように思える。 この騎士道精神は、そこかしこで見られる。

慣れたつもりでいたが、買ったパンを取ろうとしたら、自動販売機のふたをすっと開けてくれた作業着の兄ちゃん(彼は隣の自販機の詰め替えをしていた)には、久しぶりにびっくりしてしまった、ワタクシ日本人。

そんな風に育ってきたフレンチお嬢様方が、「ちょっとコーヒー入れてくんない?」とか男の上司に言われたら、それはすさまじく「ムカ~ッ」とするのかもしれない。

確かに、ここは会社で家庭の延長じゃない。わたしゃあんたの奥さんでも母さんでもないんだから、そう偉そうに「お茶」とか言うな! という気持ちは、わからないでもないけれど、それってもう育ってきた背景と上司に左右されるよなあ・・・。 (多くの女性は、お茶を入れるのがイヤなんじゃなく、「いつもありがとう」という言葉が欲しいだけのような気がするけれど。)

うちはお茶は飲みたい人が入れるし、父が入れることが結構多い。 家族の誰が入れてもみんなの分は必ず用意される。 食後のフルーツなんかも父が用意することが多い。 (「りんご食べない?」「みかん食べようよ」と、一人では食べたくないらしい。) ま、彼の場合、自分が食べたい・飲みたいからというのが一番大きな理由でもあるけれど、料理人の性として「サービスそしてサービス」が行動の基盤という特殊なものもある。

もし上司が超カッコよくて仕事もできて優しくて独身で金持ちだったら、 上記のファビエンヌちゃんは果たしてどうするのかなあ。 やっぱり淹れるでしょう、カフェ。(私なら淹れます。もちろん!)

妊娠と仕事の関係はパラドックスだ。 女性が何歳になっても子供が産めるのであればいいけれど、 妊娠・出産は40歳を過ぎればチャンスもなくなるのだから、女性だってあせる。 けれど、一番フットワークが軽く、色々と吸収できるのは若いときだし、 ダンナの仕事が上手く行っていなければ、奥さんだって働かなくちゃ食べていけない。 ただ、そういう現実的なことよりも、 若い人たちがこの法令で一番ひっかかるのって、 「妊娠=あんたは役立たず」とか 「若い=失敗したら後がない」って思われることのような気もする。 色々と若者の反発を見ていると、精神的に焦って、 「俺をもっと愛してくれ!」「私がつらいってことわかってよ!」 と言っているようにしか見えない。

「だれか、大丈夫だと言ってくれ!」という叫び。

フランスではこういう反応がデモという「動」で表現され、 もうなんだかわからないけれど、動くことで不安を紛らわせるしかないという、結果を伴わない無駄な反抗として現れているような気がする。だから、車に火をつける。 日本では「静」としての反抗がじわじわと広がっている。 集団自殺とかニートとか、動くエネルギーが枯れてしまって、 何をしていいかもわからない。何で生きなくちゃならないのかもわからない。 どちらの表現方法でも、本音は「社会」や「国」なんてもうどうでもよくて、「自分がなんだかわらない」「自分がこのまま幸せじゃない」という不安が根にある。

私にも、そういう時期が長いことあったし、フランスにまで来なければ「自分」っていうのが実は「なんでもない人間」というシンプルな事実を理解することができなかった。

自分が特別でありたいという理想と、特別だと他人が認めてくれるまでの取り柄がないという事実の間のジレンマ。 今は、そういう焦燥感というのは、ない。 自分が何なのかなんていうのは、 自分の中に見つけることなどできないとわかったから。

「自分」は、相手の中にいる。 関わった人ひとりひとりの中に生まれる私に対する感情とか反発とか、癒しとか、そういうものが、わたしを創って行ってくれるから、 わたしは関わる人全てに創ってもらっている。 わたしは、だから、できることをやって、相手に伝える努力をして、考えて、動いて、感じて、交流して、私の中にもたくさんの人が生まれる。

自分は何かわからなくてイライラしていたとき、 実は自分にしか発想が向かなかった。 誰かのことを考えるときでさえ、 「相手は自分のことをどう捉えているか?」が問題だった。 「相手にとって好都合な何かを見返りを求めずにやる」=「payer(払う)」 ということができなくなったとき、ストレスは溜まり始め、自分のやりたいこともわからなくなり、自分も世界も急に霞がかかっちゃうなぁという気がする。

演劇学校に通っていたとき、現在もわたしが尊敬していい付き合いをしている親友が、役作りで悩んでいるわたしにたくさんのアドヴァイスをくれた。 演劇学校なんて同性なら一人一人がライバルだから、ほとんどの人がどうしたら自分がお客さんの印象に残るかということしか考えない。 そんな中、親友は、こうしたらまりが面白く目立つ、とか、こうした方がまりの見栄えがいいなどと言う。 わたしを目立たせても困らないほど、彼女自身に余裕があるのだなと思っていたけれど、彼女は 「だって、そうした方が芝居自体が上手く行くじゃん、そうでなきゃ面白くなんないもん。それは共演している私を助けることにもなるし」と当たり前のように言った。

本当は、芝居もこの世界も、それが当たり前なんだと思う。

自分が上手く流れるために相手を蹴落としても、絶対に、絶対に、上手くは行かない。道徳的なことじゃなく、物理的に上手く行かない。 もちろん、何をゴールに定めるかだと思う。 「ワタクシが美しく見えるか」なのか、 「芝居が面白くて、お客さんが満足する」なのか。 「あの俳優は演技がよかったけれど、芝居自体はツマラン」では、 そのときの個人の評価は良くても、その芝居を作ったチームの先はない。

自分に煮詰まったら、とにかく誰かのために何かを払ってみたら、 そこに自分が見えてくるもんじゃないかなあ、 結局幸せもそこにあるんじゃないかなあ。

Un amour oublié

わー!!!しまった・・・バレンタインすっかり忘れていた・・・。クリスマスにチョコ贈ったからいいか、などと。 男の人はやっぱりバレンタインを忘れられるとかなしいものなのだろうか?

ちなみに、日本のカップル用イベント(バレンタイン・クリスマス)の存在を思い出させてくれるのは、いつもホモ達だったりします。。。彼らは好きだもんなぁこういうイベントが。

忘れてたって言ったら「ちょっと、女捨ててるワヨッ!」と怒られそうだ。 うーん、ごめんなさい。

Je souhaite un soir DOUX de St Valentin pour tous les amoureux et toutes les amoureuses...

哀しい発言

よく、フランス人が日本人女性を褒めるために使う言葉がある。「肌が白くて綺麗だね。中国人と違って黄色くない。」

以前はそんなに気にしなかったけれど、今このナゾの褒め言葉が一番カンに触る。

フランスに来る前に、わたしは派遣で某携帯会社の販売をしていた。キャンギャルとして方々の会場を回ることから、電気屋さんでの契約の仕事まで色々だった。派遣ながら会社主催の研修や試験なども受けたし、3年ほどやって知識も付いてきたところだった。

ある日、仕事先の付近にあるキャバレーに勤めているインドネシア系の女性が携帯を買いにきた。外国人は通常色々と問題があるから、当時は審査も厳しいし、滞在証明なんかもあやふやだから上手く開通することはない。場所柄、893さんの多いところだったし、下手に関わるとあとでごねられて大変なことになったりするから、できるだけ相手にしないのが安全。 わたしは契約を頭から断った。

彼女はねばったけれど、わたしは冷たく「決まりだからだめなものはだめ」とはねつけた。彼女は恨めしそうな顔をしてわたしを見つめると帰っていった。 自分を「正しいことをした」と納得させていたけれど、彼女の目つきが忘れられなかった。ずっともやもやと気分が悪かった。 彼女は後日「パパ」らしき日本人のおっさんを連れてリベンジに来て、担当した同僚が無事開通させた。 そのときの彼女のはしゃいだ顔、私を徹底的に無視した様子に、なんとも言えない不快感を感じた。 彼女にではなくて、自分に。 わたしは、会社のために彼女を断ったんじゃない。 彼女がインドネシア人で、キャバレーに勤めていたから断ったんだ。 初めて、自分が人種差別をしていたんだと気づいた。

ここフランスで「中国人と違う」という言い方が褒め言葉として平気で使われる(4年の滞在で5人以上の人から言われたことがある)背景には、そういわれて喜んでいる日本人がいるってことだ。 少し前のわたしは、平気で喜んでいた。 肌が綺麗と褒めてくれるのはありがたい。

だけど、 「白は美しい」 「中国人じゃないからいい」 という根本思想が気に食わない。

「肌は白いけど、やっぱり笑ったら目がなくなっちゃうところが中国人と似ている」

とか言って褒めているつもりのフランス人に出くわすと、グーで殴り倒したくなったりもする。

「目は大きく丸い二重じゃないのは(自主規制)」

と言っているようなもんだ。 (だいたい、美人の中国人はみんな目が丸く大きい人が多い。日本人の方が全体的に歌舞伎顔というか、目がすっと細い人が多いと思うから、中国人が目が釣りあがっているっていう偏見の発想は古い)

確かに私は笑ったら一筆書きできる顔になります。だからなんだってんだ! この顔がアンタに迷惑かけたかってんだ! 久々に腹が立った。 最近めっきり腹の立つことがすくなくなったおだやかさんなのですが。 別に中国擁護派でもなければ人種差別反対運動で車を燃やしたりしている過激派というわけでもないのですが。

知らない若造に道を歩いていて「ニーハオ」とか言われるととび蹴りを入れたくなりますが、知り合いで、しかも友愛を感じていた人が「中国人と違って」ということを言ってくると、へこんでしまう。

海外に出て生活をすると、程度は人それぞれだけれど、誰もが外見の明らかな違いというものを意識すると思う。今までは当たり前だった自分の外見が、明らかに浮いている、という事実。目立つ積もりはなくても目立ってしまうし、だから余計ぎこちなくなったりして、それが相手にも伝わってお互いギクシャクしてしまうことだってある。 自分は同じ人間だし、言葉も理解しているし、しようと努力しているのに、そういう意向とはまったく関係のないところで「ガイジン」と淘汰されてしまうのは哀しい。

「ガイジン」なのに、結構やるじゃん。 「ガイジン」だから、ちょっと大目にみてやんなよ。

大抵の評価はこのどっちかになる。そうじゃなく、本当に平気で付き合える友達たちを、わたしは逆にすごいと尊敬してしまう。 逆の立場だったら、わたしはきっと彼らみたいに自然ではいられなかっただろう。 歯がゆさや哀しさがはじめてわかったから、今後どこにいようと、わたしは絶対に人種如何で誰かを避けたり無視したりはしない。

それが正義だからとか、人種差別はいけないとか、そういう一般の正悪の判断が根拠ではない。

差別をした経験があって、 差別をされた経験があって、 そのどちらでも、わたしは哀しかった。 だから、差別をしない。それがわたしだ、ということだ。 中国人の友達もいたから、彼らが多かれ少なかれアクがある人々だということも知っている。 先学期は中国映画を研究するオプションをとり、今学期はカフカと中国小説の比較をやって、少しずつ中国という国、そこに住む人々を部分的に知り始めた。(現代中国小説は面白い。仏語でしか読めないのが残念。) 日本が中国にルーツがあるから、やっぱり根本的なところで思想が似ていたりするから、読んでいて肌で理解ができることが、懐かしい友人にあったようでうれしかったりするし、 なにより、人間として、この地球に存在しているという否定の仕様がない共有感覚をいったん知ってしまえば、白いだの黄色いだのと言っている輩があほらしく見えてくる。

けれど、そういう言葉を聞くのは哀しい。 差別は哀しい。

パリでランデヴー

春の足音のするパリ。花の都パリ。

ああ、あなたにやっと会えるのね・・・! そういうわけで、本意なのだか不本意なのだかわからない微妙な心持で 笑点の緑の人を見に、3月11日に週末パリ旅行に行ってきやす。

比較文学のエクスポゼ抱えてるのになぁ・・・。

しかし、オフィシャル高座はフランスでは初めてだから、やはり今後の傾向と対策を練るという上で、ナント落語番長(自称)としてはぜひこの目で見ておかなくてはいけません。演目は 桂歌助「そば清」 三笑亭茶楽「紙入れ」 古今亭今丸 紙切り 桂歌丸 「尻餅」 確かに動作で笑わせる噺を持ってきていますが、さてこれがどう出るか。

マメなうちの師匠が去年送ってきたスポーツ報知の切り抜きによると、 日本の春夏秋冬に合わせて四つの噺(紙切りは秋がテーマだそうだ)を持ってきたらしい。うーん、しぶい選択・・・。四季折々の日本を感じられたら嬉しいところです。 フラ語字幕にも工夫をしているらしいので、それも見所。サゲが先に字幕にでちゃって噺が落ちる前に笑われちゃったっていうのは、確かに気をつけないといけない。

もしどなたか行かれる方がいらっしゃいましたら、どうぞお声をかけてください。やたらメモっている日本人女性がいたら、たぶんそれが私です。

春宵一刻値千金

たそがれ時
たそがれ時

夕暮れと夜明けが好きだ。

あの刻々とじんわりと空の色が変化していくのを見ていると、地球って宇宙の一部なんだなあと実感する。

あと一ヶ月半ほどで夏時間に戻るフランス。今の時期の太陽の動きは、日本の春のものに近いような気がする。 つまり、「夕方」がある。 夏時間になってしまうと、いつまでたっても日が暮れず、夜の9時半ごろにこの夕暮れ的な空をほんのわずかばかり見せて日は落ちる。時間的には夕方とはいえない。

日本語を教えていたとき、「夕方って何?」と聞かれて、そういえば、夕方にジャストフィットなフラ語ってないなぁと気がついた。夜の7時くらいまでは、平気でaprès-midi(午後)とかfin d'après-midi(午後の終わりごろ)とか言うから、夕方という時間帯の感覚がないのかもしれない。

夕暮れを示すフラ語はどれも好き。

crépuscule

entre chien et loup

la nuit tombante

crépuscule は ラテン語のcrepusculus(疑わしいという意味)から来ていて、夜明けの薄暗さを表すこともあります。 entre chien et loupは、そのまま、「犬と狼の間」。 la nuit tombanteも、「夜が落ちてくる」状態。

わたしは木も山も日本のものが好き。 でもヨーロッパの青空だけは日本では決して見られない美しさを持っていると思う。アイルランドの空にはため息が出た。 この空を描きたくなるだろうな、だからたくさんの画家が生まれたんだろうな、と空を見上げる度いつも思う。

ほんのり夕暮れを感じるこのごろ、まだ寒いけれど、わたしの芯は 春をもう感じている。

ツ・ブーム

今日は古フランス語(ancien français)の小テスト。

古フラ語は現代フラ語とぜんぜん活用が違う。 ラテン語とも微妙に違う。

ラテン語よりは適当でいい加減なんつ。 その辺がフランスの特色をよく反映してるんつ。

で、すっかり「語尾ツ」ブーム。 古フラ語で語尾がtの単語に複数形のsを組み合わせるとz(「ツ」という発音)になる。基本的に現代フラ語では発音しない語尾の子音も発音する。 vent (風ヴァン) は 「vant ヴァン」、複数形は「vanz ヴァンツ」 いちいち語尾のsとかzとかを発音していると妙に耳に残ってしまう。それでついつい普通のフラ語を読んでも語尾まで発音して田舎くさくして遊んでいたら、最近とうとう日本語にまで影響がでてるんつ。 誰にもわかってもらえない超マイナー方言(?)ブームなんつ。

ちなみに「語尾ス」ヴァージョンもありんす。でもこれ、ちょっと花魁っぽくなったり、意外に日本語にマッチしてあんまりおもしろくないんす。 最近、どうも、何を見ても笑えてくる。しゃんぴにおんの中にワライダケが混じっていたんだろうか。 過去の爆笑ネタも、急にふと浮かんできて一人で笑ってしまう。 そういうお年頃なのかなー。

こうやってへらへらしているので、ラテン語とか古フラ語ってそんなに楽しいのかなとたまに勘違いされるのですが、 わたしとしては、禅の苦行みたいなもんなんじゃないかと思ってるんつ。 (お坊様の修行と比べてはいかんのかもしれないが・・・)

フランス語を始めたときに、誰もがげんなりさせられる女性名詞・男性名詞ですが、ラテン語や古フラ語を前にすると、たった2つしかカテゴリーがないことがありがたくさえ感じてしまいます。しかも、単数複数の変化はsとかxとかを付ければいいのでややこしいことはそうないし。

古フラ語は名詞の語尾が4つの形に変化します。名詞の種類も男性・女性ともちろんありますが、それぞれの語尾変化のパターンがさらに3種類ずつあります。 あー、書いている本人もわけが分からなくなる。

上のvant(男性名詞)なら次の語尾変化をします。

CSS li vanz

CRS le vant

CSP li vant

CRS les vanz

CS (Cas Sujet 主格) は主に主語や呼びかけなどの位置におかれる場合の形。 CR(Cas Régime 対格)はそれ以外の補語として使われる場合の形。 それぞれ単数形(Singulier)と複数形(Pluriel)があります。 liとかlesとかは冠詞です。

つまり語尾変化の形と、冠詞(省略されることも多々あり)を見て、その名詞が主語として使われているのか、それ以外なのかということや、単数複数を見分けるということになります。 こういった語尾変化の種類が男性名詞に3タイプ、女性名詞に3タイプある。

この古フラ語も、ラテン語から見れば全然楽。 ラテン語は男性・女性のほかに中性名詞があります。 それぞれの名詞は5つのCas(格)と単数複数にしたがって語尾変化をします。 その語尾変化の種類も5パターンあります。 人の名前だって、神様の名前だって語尾変化。 たとえばシーザー(Caesar)は

Caesar, Caesar, Caesarem, Caesaris, Caesari, Caesare ...(複数形は省略)

もちろん動詞も活用します。活用の変化は5つのタイプがあります。 ひとつの活用タイプの中には 能動態  現在形・半過去・未来・過去・大過去・近接未来・不定・現在分詞・過去分詞・未来分詞  受動態 現在形・半過去・未来・過去・大過去・近接未来・不定・現在分詞・過去分詞・未来分詞 と、ずらずら時制の種類があります。 もちろんそれぞれの形態につき、6称(Je, tu, il, nous, vous, ils)に活用をします。

こんな風に、単語の活用や語尾変化でその働きを知ることができるので、ラテン語文は単語のポジショニングが非常に自由。活用さえ覚えていればどこに何の単語を置こうとほとんど関係ないわけだから、左から順番に主語・動詞・補語と書かれている場合はほとんどなし。

形容詞も現在のところ3パターンの語尾変化を習いました。 そのほか、代名形容詞などというのもあれば、代名詞の語尾変化もあったりして、もう笑うしかないんす。

これだけ厳しいルールをがっちり決め込んでしゃべっていたということは、発する言葉と発信者の内面がかなりぴったりと一致してたんじゃないかなという気がします。 フランス語というのは、本当に言葉を「表現」として扱う。だから単語が山ほどあって本当に微妙な心の動きを「言葉」という音を使ってぎりぎりの所まで表現しようとしている言語だなぁと思う。普通に話していても、使う言葉を「いや、今のはそれよりもむしろこの言葉を持ってくるべき」みたいなことをよく言われる。

語学を始めてから、わたしの「与太郎」こと脳みそは、わたしがもっとも苦手とする「覚える」ということばかりを徹底的にやっている。意識的な記憶の訓練というのかな。たまに彼は「虐待だー」と泣いたりしている。 最初はどうやって単語を覚えたらいいのか分からなかったし、何度やっても忘れて、辞書を引くたびに一度探した印がついているとうんざりしたものでした。 ある程度記憶の貯金ができると、どうしてこの単語はこんな形になったのかというのが辞書に並んでいる前後の単語からなんとなく分かったり、ラテン語からの進化が元になっていることが分かったりすると一発で記憶に塗りこめられたりする。

世の中には「教科書は一回読めば覚えちゃうから、特に勉強せずに試験で高得点」といううらやましい人がたくさんいる。 一度でいいから、言ってみたいセリフだよなー。 ちょっと、申し訳なさそうな感じで言うんだよなぁ。

4年目のあっちょんぶりけ

"Le Japon n'est pas la Chine?"「日本って中国(の一部)じゃないんですか?」

 

「中国日本省」って思っている輩がフランスにはまだまだいるとは聞いていたが、現役大学生の口から聞くとは思わなかった・・・。 比較文学カフカ「変身」と中国小説の授業中、フランス上陸四年目にしてとうとう聞いてしまった、このセリフ。 教育って。

ドはドリフのド

久しぶりに会ったアトランティック・ジャポン協会会長氏(フランス人)が、相変わらず流暢な日本語で、

「ドリフ(のDVD)買っちゃったよ!ドリフ!超面白いよ!まりにも貸すから!」

彼のような形で日本を愛してくれるフランス人が今後増加することを、切に所望する次第であります。 ドリフDVD3巻セット・・・私も欲しい・・・。

かつてちびだった時、世間のたのきんトリオブームをよそに、わたしは「結婚するなら志村けんがいい」と心に誓っていたことを思い出しました。 ナントでバスターキートンの映画をやっていると、シムケンを思ってしまう今日この頃。

ヒゲとオヤジとお前と俺と

日本の大学から仏文が消えつつあるらしいですね。フラ語、難しいもんなぁ。そんでもって役立たずだし。

仏文というより、文学部自体を目指す人が減少しているとも聞いた。 直接キャリアに結びつかないから経済やったほうがいいということなのかな。 キャリアを目指したり、大学のポストを狙ったりという気はさらさらないのですが、大学院にいる日本人の先輩たちが「日本に帰っても職などない」というのを聞いていると、なんだかなぁ・・・という気になってくる。

日本で大学を出てないわたしとしては、もうこれは体を張って何とか自活できるよう稼ぎ、残りの時間で翻訳を細々として行くしかないかと考えている。 体を張る仕事といえば、工事現場。 ヒゲとか生えてきちゃったら、どうしようかなぁ。 安全第一帽をかぶってみたいなぁ。 巨大な薬缶の口からそのまま麦茶飲んじゃったり、ワイルドなんだろうなぁ。

と、言ったら、友人に「いらないこと想像しすぎ!」とつっこまれました。

これって、性格かもしれない。わたしはよくどうでもいいことについて色々考えてしまう。

今わたしがやっていることも、日本で生きていく上では、かなりどうでもいいことばかりだ。 フラ語、ラテン語、古フラ語、仏文・・・ 唯一英語が役に立つかもしれないけど、専門じゃないからすごいいい加減。 はみ出た知識を抱えて、どうすんのさ、これ?と、なんとなく途方に暮れていた。 生きていて学んだことに無駄なことはないと人は言うけれど、収穫したものをむやみやたらに詰め込んでそこから何も生み出さなければ循環できないなーと思った。

しかし、この一見つながりの薄そうな手持ちカードをどうやって実生活で生かそうか? 知識は生かしてなんぼ。誰かに貰い、誰かに渡すという循環ができないものは、やがて滅びる。 「錬金術」か・・・やっぱり、そういう意味で「寝起きノート」に書かれていたんだろうか。

文学は、生きるために必要不可欠だとわたしは信じている。

読解という作業ははパラドックスだ。

文字で書かれたものを読んで、文字では書かれていないことを探り、心に埋め込んでいく作業だから。 この作業をまったく知らないまま世の中に出て、「数字」とか「名前」とか「言葉」という記号の中であやうく自分を見失ってしまうところだった。

私たちが使う「言葉」は、常に発信者の心の底の音色、声なき声を伝えている。それを敏感に感じ取ることができるからこそ、コミュニケーションは可能だし、皮肉なども通じることになる。 「言葉」は、記号でしかない。「いろは」の元となる万葉仮名は、中国の表記を日本人の使う音に合わせて作られた、音を伝える楽器のようなものだ。 その表記から意味を理解し、感情を読み取り、わたしたちは現在日本語を使っているけれど、

その文字を発しながら、文字自体が表現する意味をわたしたちは裏切ることだってできる。 「馬鹿」と言いながら、「好き」と伝えることだってできるし、「絶交!」と宣言することだってできるわけだ。

文章を読み取るというのは、自分ひとりの作業だ。 けれど、読みながら作者と相対するものだし、小説なら登場人物それぞれの心を探ることになる。試験で出された文章は、出題者はなぜこれを提示してきたのか、と考えることになるし、自分で本屋さんで選んだりした場合、そのときなんで自分はこの文章に惹かれたのかな、と探ることができる。読むのは一人かもしれないけれど、心を馳せる相手はたくさん居る。 白い紙の上に整然とした黒い部分を追っていくことだけでは、内容を半分「読み取って」いることにしかならない。 そこから立体的に文章を起こし、ぶつかっていくには自分の思考を使って

「なぜこう書かれているのか?」

「なぜこう読み取れるのか?」

と自らを練りこんでいかなければならない。しんどい。 「私は文系だから」と数字に対して私は常に逃げ腰だった。理由は、

「数学はひとつしか答えがない。国語はいくつも答えがある。マルかバツかだけじゃない。」

本当は、文学だって数学と同じだ。マルかバツか。 つまり、「読解」がおかしな方向へ走っていて、しかもそれが人を説得できないようであれば、「バツ」になってしまう。 そのときの状況、発信の仕方にもよるけれど、 彼氏の愛情のこもった「馬鹿」に、「なにさ!あんたのほうが頭ワルイじゃん!」と怒り出したとしたら、「バツ」。

文学は、社会生活全般で、人間関係の基盤を支えるためのこつを会得できる必要不可欠な分野だと思う。 文章という記号の底に流れる思いを読み取ることができるようになれば、人と人が生でコンタクトを取るときに、相手の感情をはずさずに読み取るのはずっと楽になるんじゃないかな。 そういうことがわかってくれば、読み取るだけでなく気をつけて発信するようになるだろうし、変に勘ぐったり、飾ったりする必要はなくなるし、相手を敬うってことは自分を大事にするのと同じだってことだってわかってくる。それを怠るから、何某衛門のようなことになるんじゃないかなあ。

「フランシスコ・ザビエルってバイヨンヌ出身らしいよ。バスク人だってよ。ところでバイヨンヌ地方ってナントに近い?」

久しぶりの電話の向こうの噺家は、すでにどうでもいい知識で飽和状態のわたしに、容赦なくどうでもいい知識を提供する。 (彼のフランスに対するイメージはザビエルに象徴されているのかもしれないという、一抹の不安のようなものも感じる。)

「自分がさ、本当に必死になってやったってこと、やることができるんだってことがわかっただけでも、フランスで勉強した意味があったってわかったの。だから苦労もできるし、色々考えなくなった。結果が思わしくなくてもいいんだ、もう。」

と言ったら、彼は

「おー!一皮剥けたな!いや、剥けましたね!」

あんまり「剥けた」と連呼されて、なんだか、冒頭の工事現場でヒゲの生えたおやじな自分が蘇って来てしまった。