ヨガを始めてから、少し味覚が変わったような気がする。
埃に弱くてしょっちゅう鼻をずびずびいわせているのが嫌で、
ベジタリアンになってもう3ヶ月位経つ。
↑この文、かなりillogique(イロジック、論理的でない)に見えますが、昔から内臓と耳鼻咽喉、皮膚は大きなつながりがあると言われている、という話を聞きかじって、それ以来ぱったり肉・卵をとるのをやめました。アレルギーや花粉症は胃腸の不調が原因のひとつであることって結構あるみたいです。
実際、やめてみて前より調子はいいです。
(ただ、人によっていろいろとアレルゲンが違うと思いますから、ベジータになったからといって即症状が改善されるのかどうかはわかりません。)
別にベジタリアンにとてもなりたいわけでもなかったのだけれど、
ならざるを得ない環境の一つが、
フランスは魚が高い!
海沿いの癖に、ナントびとたちは魚のおいしい食べ方を知らないと思われます。
丸ごと茹でる。
実家の猫でさえ見向きもしなさそうな驚きの『魚料理』にあっちょんぶりけだった、あれは5年前の夏・・・2週間のホームステイ先で出された「茹で鮭と茹でインド米」の取り合わせに、くらくらした(まずくて)。
日本に帰るまで、仕方ないのでたんぱく質は豆からとることに。
幸いフランス人は豆を食べるので豆の種類はいろいろあるのだけれど、
忙しくて、まずい缶の豆しか食べられないところがちょっと不満。
そして、豆腐ラブな人としては、大豆が食べたくて「soja(ソジャ)」の文字にうるうるしてしまう。
なんなんだ、この留学したてみたいな、胃腸ホームシックっぷり・・・(注・在仏もうすぐ6年)
確かに、この半年で嗜好が変わった。
お酒を飲まなくなったし、ほぼ草食人間・・・このまま光合成ができるようにならないかね・・・とか思っている。植物って偉いよな)。
しかし、ヨガに出会うまでこれだけは変わらないだろう・・・と思っていたのがコーヒーへの執着。
ええ、執着でした。
一度こちらのコーヒーの洗礼をうけてしまったら、もう後戻りはできません。アメリカンコーヒーを「靴下ジュース」とあざ笑うフランス人の性格の悪い冗談にもこっそり心でうなずく・・・(でも、イタリアのコーヒーのほうがもっとおいしい)
ところが!コーヒーを飲みたいとあまり思わなくなってしまった。
不思議ーふしぎじゃー
というか不気味ー。
でも、なんかとりあえず飲みたいぞ、でも紅茶ばかりも飽きるぞ、と思っていたのですが、ふとしたことからチャイにすっかりはまってしまったのです。
簡単でおいしい。ほやぁーっと身体が解ける。
インドの本場ものは砂糖大量ですごい甘いと聞きますが、私は蜂蜜を入れて飲みます。
そういえば、砂糖も買わなくなったなぁ。蜂蜜で間に合ってしまう。
短期間で、なんだかいらないものが増えた気がする。
にんげんって、ほんと変わるものなのねー。
C'est le printemps !
うちのアパートは教会のすぐそばにあるのですが、
広場にはソメイヨシノに近い種類の桜の木が2本あります。
ちょうど昨日満開だったので写真を撮っておいたら、
今日は、夕方雨が降り出して少し散ってしまっていました。
少し気温が上がって、芝生というところには人々がごろごろ、半そでで歩く人があちこち、かと思ったら、今日の最後の授業の後は薄いジャケットの前をかき合せるようにしてトラムまでの道を急ぎ足。
そういえば、フランスに旅立つ前に、記念にと家族で夜桜を見に行ったことを思い出しました。みんなで缶ビール片手に、タッパーに詰めてきたパエリヤ(前日の残り物・・・)をつまんだっけ。なんだか不思議な夜桜見でした。
来年は6年ぶりに日本の桜と再会するのが楽しみだなあ、と
本の重みでずるり下がった鞄をよいしょ、と肩に掛けなおす。
Quo Vadis, Domine ?
どうも、ずれている。
いつまでも外が明るいし。
よーく考えてみたら、今朝夏時間に移行していたのでした。
私が愛用しているクォ・ヴァディスの学生用手帳には、年に2回時計をぐるり一時間回す日には、きちんと時計マークが記されている。(にもかかわらず、間違えた私・・・)
10月の終わりには午前1時から2時が2回存在し、
3月の終わりには午前1時から2時がさっくり消えてしまうという、
このタイムトラベルを経験するようになってから、
時間というのは観念でしかないんだなぁと思い知らされる。
この「リセットの日」は、今私がチャレンジしている
「maîtriser le temps」
にちょうどいいかも。
私は小さいときからの気質として、ぎりぎりまで動かず、
あわてて何とか間に合わせるという時間の使い方しかできないタイプでした。
しかも、どうやら並以上の『土壇場力』があるらしく、
なんとかかんとか上手くいってしまうことが多い上に、失敗して泣きを見たことをきれいさっぱり忘れてしまうという特技と相まって、やっかいなことこの上なし(笑)。
きっとたくさんの人に迷惑をかけてきたんだろうな~・・・あーいやだいやだ(それは迷惑をかけられた人の科白)。
けれど、先学期、「ああ!あと一日あれば、もっとしっかりしたものを作れたのに!!」と提出課題の付け焼刃的なできに悔しい思いをしたことから、
いったん自分の時間の使い方を見直してみることにしたわけです。
マリ (ノロリ科シリニヒガツカナインス)
生物的特徴
- 行動のタイミングが悪い(動くべき時と、考えるべき時の見分けをつけることができない)。
- 動き出すまでに時間がかかる。
- 余計なところで完ぺき主義。
- 物事に対して受身。
- 熱中すると周りが見えなくなる。
- 行動の優先順位がつけられない。
- 決断が遅い。先延ばしにしてしまう。
-「明日できることを今日やらない」がモットー。
-「あとでやろう」が口癖。
- いったん始めると、中断することができない。
- 気になることがあると、常にそのことを考えてしまう。
- ぎりぎりで仕上げる自分の手腕に、妙な誇りを持っている(いやん)
- 持ち物が多い。
エトセトラ。
さて、どんな風に変えていくかいな、この30年で培われたギリギリセーフ癖。乞うご期待。
ピー・エス
Quo Vadis ?とは、セント・ピエールがキリストに言ったとされる問いかけで、「どこに行くの?」という意味のラテン語です。
えごさん。
並木道が一斉に白い花を咲かせたと思ったら、雪が降ったりしてなんだか調子が狂ってしまう一週間でしたが、今日はやっと春っぽい天気に。
コインランドリー日和・・・
トラムにごとごと揺られて、2つ先の駅まで行きますんです。
(洗濯機はまだ来ません。大家さんから連絡があってもう2週間になる。大家さんが連絡をくれるまでさらに一週間・・・なので、先代洗濯機を亡くしてかれこれ3週間のコインランドリー通い)
月曜日提出のAucassin et Nicolette中の古フランス語分析が終わらないんつ・・・(語尾ツ現象) なんでしたっけね、何かを書くお約束をしていたような。。。 そうそう、フラ語脳はエゴさんトリックという話を・・・ 正しくは、égocentrique(エゴサントリック)。つまり、自己中、なのですが。 「自己中心的」、というと、なんだか悪いイメージが浮かんでしまうのですが、相手のコンディションを考慮しないまま自分を押し通すジャイアン的論法(cf.「俺のものは俺のもの、のび太のものも、俺のもの」)のことを指すのではなくて、 常に、相手との関係の中で主語を自分に持ってくる思考方法のことです。 「I(アイ)メッセージ」とも言うそうです。 以前は相手の言動にイライラしたり、傷つけられたわー!と思う時がよくありました。大抵、自分が思い描いていたとおりに相手が動いてくれない、 期待していたとおりの反応が来ない、 というのがその原因だと思います。 自分に不都合または不快な状況に晒されたとき、それを表現したり、疑問を素直にぶつける、ということも、やっぱり難しいことが多いです。 例えば、授業でわからないことを手を上げて質問したり、発言したり、 電車の中で誰かの行為を注意したり、 そういうのってブレーキがかかってしまいます。 こういう時、自分の中でどんなフレーズができるか?というと、 「なんであいつ○×してくれないんだ」 「上司はいつも×※ばかりなんだから!」 「○△ちゃんっていつも◎☆だからイライラさせられる」 「ここ、わからないから質問したいけど、みんなに『そんな事もわからないの?!』って思われるかな・・・」 これらに共通するのが「わたしがいない」。 主語が自分以外の人になってしまっているのです。 「エゴさん」な人は、自分に起きた状況と自分の感情をごっちゃにしないで捉えることができます。 つまり、 「あいつ○×してくれないから不満」という状況があって、 さて、「わたしはそんなあいつに対してどうするかい?」 という、解決に向けた思考回路になります。 といっても、ポジティブな解決(「あいつ」と冷静に話し合ってお互いに問題点について意見を交わし、解決へ持っていく)になるか、爆な解決(絶交とか)になるかは、また別問題ですが。 ところで、フランス人はとても文句を言うのが好きです。 公共機関というのは「働かない、たらいまわし、責任逃れ」の三拍子なのですが、これを改良するつもりがなさそうなのは、愚痴ネタとして是非とっておかなければならないからなのではないかと思っています。 しかし、「Je」なしには自分の気持ちや意見を言えることは殆どないフラ語回路では、「わたしがいない」状態の会話は長続きしません。 私がフランス生活の中で、「おお!!」と感動した愚痴があります(笑)。 大学の事務というのは、採用基準に「不親切で不機嫌な人」とあげられているのではと思う位、毎度何かをたずねに行くたびにガッツを奪われる場所なのですが(最近の文学部はマシになったです)、一度こういうせりふでとっちめられたことがあります。 「Il y a beaucoup d'étudiants comme vous qui me demandent la même chose tous les jours, je suis assez découragée...」 (あんたみたいな生徒が毎日同じことを聞きにくるから、もう私うんざりしてんのよ・・・) découragerは、courage(勇気、がんばる気力)を削ぐという意味の動詞で、êtreを使って受身にし、「へこんだ・・・」「がっかりよ」という気持ちを表すのに使います。これが、レベル1の使い方。 事務所のマダムが使った上級レベルは、「有象無象が入れ替わり立ち代りわけのわからんことを言いに来て、ワタクシのやる気を失くさせた」という受身表現でありながら、 主語の「je」をちゃんと言っているのです! また、この「assez(アッセ、「結構」とか「いい加減にもう」という意味)」の使い方が憎いんだ、これが。このアッセを加えることで、アンニュイな感じを出して「あーもう」感をそこはかとなく醸し出しているのです。 あからさまに私を邪険にしていて、この発言にこちらこそデクラジェだったのですが、 「こんな使い方があったのか!」と思わず感動してしまい、事務のおばはんに反撃せずに撤退した大人な私でした。 さて。これだけ「Je」「je」「JE」と連呼していると、 嫌でも「エゴさん」になってきます。 「わたし」が「何をするのか」。それが唯一考えることなんだと思います。 だって、誰かのことを考えることはできるけど、誰かに代わって考えることはできないし、他人の心を変えることはできないから。 不安もなくなります。だって、自分にできることは限られているから、後はそれを自分のすべてのキャパシティを使って創り上げればいいだけだから。 大切なのは、人がどう評価するかではなくて、 どれだけのことをしたか、自分でわかっているか。 もちろん、他人の意見を聞かないということではないです。 その意見を通して、また「私は何ができるかな」なのです。 どうでしょ、ジュな思考回路。
屍鬼二十五話―インド伝奇集


ソーマデーヴァ
平凡社
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(1978-01)
「フラ語脳になると、不安思考が減る?」という話をしようと思ったのですが、ちょっと一休み(してばかりでごめんなさい)。 今週の月曜日は英語のエクスポゼ、昨日は比較文学のミニテスト。ヴェーターラ・パンチャヴィンシャティカー(屍鬼二十五話)についてです。 この話は、設定がぶっとんでいて、単純に楽しむことができます。 (フラ語でしか読んだことがないので、日本語訳が面白いかどうかはわかりません。日本に帰ったらぜひ読んでみようと思っています)
インテリジェンスと勇気・行動力にバランスよく長けたトリヴィクラマスナ王の元に、物乞いが毎日フルーツをささげにやってきます。
王は黙ってそのフルーツを貰い、家臣に渡す毎日なのですが、ある日、飼っているサルに捧げ物のフルーツを与えたところ、フルーツの中から宝石が出てきました。家臣に問いただしてみると、確かに、今まで物乞いが持ってきたフルーツは腐ってしまって食べられなくなっているものの、一つ一つの中から宝石が・・・
王は、次の日に物乞いがやってきたときに、なぜこのようなことを自分にするのかを聞きます。物乞いは実は修行者で、受肉(神の子が人間の肉体に宿り生まれること)を実現させるために「強いこころを持つもの」の援助が必要だと説明します。そのためには、夜ふけてから、王は物乞いの待つ墓地に行き、木にぶら下がっている死体を彼のところまで運んでこなくてはなりません。
勇気ある王は木のところまで行き、死体を下ろすのですが、死体を担いだとたんその死体に取り付いていたヴァンパイアが現れます。
「お前さん、この夜中に死体をこんな風に担いで歩いていくなんてご苦労だね。道々退屈しないようにひとつ面白い話をしてあげようか・・・」
こうして、ヴァンパイアは全部で24の話をするのですが、各話の最後には必ず王のとんちを試す問答が行われます。これに答えられないとヴァンパイアは王を殺してしまうと脅すのですが、頭のいい王は難問に答えることができます。
しかし、正解するとヴァンパイアは魔法の力で死体もろとも消えてしまい、王はまたもや死体を捜しに木のところまで戻らなければならないのです。
モラルを含めた筋から説教っぽいオチになるのとは違い、 かなりなんでもありの人間関係(浮気・不倫は常套、レズ関係なんかもあり)、シヴァ神をはじめとした伝説の神々がぞくぞくでてくるし、スパイスの効いた結末、トリヴィクラマスナ王の見事な返答、さらには25番目のエピローグに驚きの結末が隠されているという、大人も子供も楽しめる筋になっています。
kāvya(カーヴィア)と呼ばれる美文体で書かれているので、自然や天体などを隠喩に使ったり、言葉遊びをふんだんに取り入れて語られ、エロティックなシーンが壮大なイメージになったりしてどきどきします。例えば、ある王様が隠者の娘を見初めて、彼女を連れて王国に帰る途中、夜になってしまったので野宿をするのですが、夜の闇の中で突如現れる美しい月が「大洋を胸元に引き寄せ、口づけをした」と語られます。 サンスクリットでは月は男性名詞、大洋は女性なのです。
この25の話は、仏教の哲学が根底に流れているので、一つ一つの話に隠された人間の業やそれに伴う因果、真の王とは何なのかという問いかけ、諸行無常、諸法無我、一切皆苦が自然に示され、この話を読むことで「ダルマ(法、真理)」を得、人々が解脱をする助けになるように、という願いがこめられています。
私自身は無宗教ですが、育ってきた環境や、個人的な価値観から、私にとっては仏教の教えはより親しみやすいと感じます。これは自然なことだし、だからといってキリスト教を否定するという意味ではありません。 キリストもお釈迦様もそのほかの聖人と呼ばれる人たちも、みんな同じことを言っているのだと気づいている人はこの世の中にたくさんいると思いますが、その表現の仕方・言葉の捉え方が誤解を生み、こうして「宗教」というものが形成されている世界があるのかもしれません。
このヴァンパイア物語を読んで、ああ、仏教をちらりとでも理解することができる土地で育ててもらってよかったなぁーと思いました。 ちなみに、この元祖ヴァンパイアは「とり付く者」という意味があるそうで、西洋のヴァンパイアとは全く種類がちがうようです。
しかもこの人(?)、実はいいやつだったりして・・・おっと、これ以上言ってしまうとネタバレしてしまう。 今も昔も、究極のところ、見かけでしか判断していないと、底に眠る「宝物」に気づくことができないのですね。
ところで、太極拳は中国文学がきっかけで始めましたが、今回はこのサンスクリットを調べているときに、肩こりを直すのにヨガをちょっぴりかじってみて、すっかりはまってしまいました。あちこち筋肉痛ですが身体は快調です。
「わたし」を言うフランス語
前々回、フランス語特有の言い回しということで、 大家さんの「オマエ(洗濯機)ハモウシンデイル・・・」発言の中で 洗濯機を示す主語に代名詞の女性形Elleが使われるという話をしましたが、 これを裏付ける場面に遭遇しました。
1週間の休みが明けて2学期が再会した月曜日、友人のイザベルに洗濯機爆発騒動を話そうとして・・・
La machine à laver de chez moi, ce n'est pas à moi, c'est à ma propriétaire, elle est très vieille...
「家の洗濯機ね、わたしのじゃなくて、大家さんのなんだけど、それ(elle)がすごい年季入っててさ・・・」
と、言いかけたら、
Eh, c'est ta machine ou ta propriétaire qui est vieille ? 「ね、大家さんと洗濯機どっちのこと言ってんの?」
と突っ込まれた。 その瞬間、「これはすごいネタ提供をしてもらった!」と思わずにやにやしてしまい、 冗談だか本気だかどちらかわからないようなツッコミをしたイザベルもにやにやとし、 私たちは怪しいふたり組みでした。
わたしは Elle = la machine à laver (洗濯機、女性) のつもりで発言したのですが、直前に ma propriétaire (うちの大家さんは女性なので、所有代名詞は女性形の「ma」)という単語が挟まっているので、聞き手としてはElle がどちらを指しているのかをとっさに判断しかねます。
日本語で洗濯機は「古い」といいますが、お年寄りのことを「古い」とは言いません。けれど、フラ語ワールドでは、vieux(vieille)「古い」という意味を表す形容詞は生物にも無生物にも使われます。これが、更に曖昧さを加えることになったのです。
こんな風に、言語が違うと思考回路も変わってくるため、母国語にはない言語学的ふしぎ体験をしてしまうことがあります。
さて。 自己主張の上手下手は言語に左右されるのでは、という話です。
日本語は主語が3人称でない限り、はっきりと「誰」を言わない言語です。 特に自分のことや、面と向かっているときの「あなた」という言葉を はっきりと音にせず、雰囲気で伝えてしまえる言葉だからです。 誰かと話していて、「明日、この人と一緒に映画に行きたいな」と誘う時、 ネイティブの日本人であれば、間違っても
「明日、あなたは私と一緒に映画を見に行ってくれませんか?」
とは言いません。
「明日、よかったら○○っていう映画を見に行かない?」
って感じになります。 この文章では主語がすごくあいまいで、「あなた」に対して問いをたてつつ、動詞は「わたしとあなた」という雰囲気を持っていて、 「わたし」「あなた」「あなたとわたし」という三つの隠れ動作主が共存しつつ、いずれも言葉としてはっきりと表現されません。
自分の意見を言うときも、
「あの監督の作品だったら、前作の方が面白かったなー」
という感じになります。もし、はっきりと
「わたしは前作の方がおもしろかったなー」
と言うと、もっと押しが強い印象を与えることになります。 フランス語は、その仕組み上、主語を言わないで文章を作ることは不可能です。
Je préfère son film précécdent. (私は彼の前作をより好む)
* Préfère son film précédent. (* は文法上正しくありません)
「わたし(je)」と発音せずに、自分の意思を伝えることはできません。 こんな風に、常に「わたし」を空気に混ぜてふんわり伝える言語と、常にはっきりと発音している言語では、自己主張の上手下手に差が出るのは当たり前なのだと思います。
ところで、同じラテン語圏でも、スペイン語やイタリア語は、日本語のように人称代名詞なしの文章を作ることができます。 でも、自己主張が下手なわけではありません。どちらかと言うと、両方ともほんとよくしゃべる国民だと思います。
では、なんで主張できてしまうのでしょう?
ラテンの熱い血がたぎっているから?パスタ食べてるから?
うーん、私が思うには(←この自己主張も、フラ語脳の影響??) コンジュゲゾン(動詞の語尾活用)があるからなのだと思います。
ラテン語から派生した言葉は、人称、数、性、時制によって動詞の語尾を活用させます。だから動詞の形さえ知っていれば主語が誰なのかがわかってしまいます。 結局、「わたし」という言葉を発音しなくても、動詞で自己主張をきちんとしていることになってしまうのです。
もちろん、文化的背景もあるし、地方によっても違うだろうし、もっと言えば自分の育った環境にも因るでしょうから、人それぞれです。 ただ、フラ語的思考ができるようになると、 「他人がどう思うだろうか」 という不安を基盤とした考え方をすることが減ってくるような気がします。
次回は、こんなことを考えてみようかと思います。