Ora et labora.
オーラ エト ラボーラ
祈りなさい、そして働きなさい。
人間がこの世に生まれてきて、行うことはこの二つだけなのかもしれない。 少なくとも、今わたしができるのは、この二つだけだ。
Ora et labora.
あなたはどうですか?
日々是々 フランス語とわたしの冒険
Ora et labora.
オーラ エト ラボーラ
祈りなさい、そして働きなさい。
人間がこの世に生まれてきて、行うことはこの二つだけなのかもしれない。 少なくとも、今わたしができるのは、この二つだけだ。
Ora et labora.
あなたはどうですか?
灰谷健次郎さんが亡くなってしまわれた。 72歳なんて、謙虚すぎる。でも、「らしい」のかもしれない。
灰谷作品はわたしの子供時代を形成してくれたと言ってもいい。 いつでも、子供の味方で、子供のあらゆる面を容赦なく、温かく見つめていた。
だから、子供たちや彼らを取り巻く大人たちの「影」や、「秘密」も、当たり前のように描かれていた。陰があるからこそ、陽を見つめることができる。だから、影は子供にも容赦しない。この宇宙に存在するものは、そういう仕組みの中で呼吸をしている。
ろくべえ、まってろよ
子供になりたかったパパと大人になりたかった僕
ふたりはふたり
マコチン
島物語
小学生の時、楽しくて何度も何度も開いては眺めた。坪井さんの独特で繊細な、ちょっと面白い絵も好きだった。
プゥ一等あげます
ひとりひとりの子供を、今でも思い出すことができる。
お尻が大きくて、運動が苦手なアヒルちゃん
「エエシの子」だけど産婆のお母さんが忙しくてさびしいタマエモン
おしゃまで気が強いけれど、お父さんのことで不安なドテカボチャ
頭がよく活発、でもお父さんが服役から戻ってくるのに動揺するカドチン
歌がうまくて、かっこよくて、頼りなくて、繊細で、ユーモアがあり、お母さんとよくけんかしては家出するシンベエ先生。
「マリー・アントワネットはギロチン台に上ったときも泣かなかった」という話や、「くそったれめが!」という先生の口癖(今の時代、PTAに大問題にされそうだ)が、子供に勇気を与えたり、
酒瓶の蓋を集めて「あほうの勲章」を作ったり(集めるために、カドチンは堂々と居酒屋に行って、カウンターの酔っ払いの相手をする。すごい肝のすわった子供・・・)、
掃除の時間に、男対女で大戦争を起こしたり、それでシンベエ先生が「男と女とはなにか」という授業をやったりする。
プゥ一等とは、子供たちがシンベエ先生に与えた称号。偉くも金持ちでもない先生だから、他の人より優れているのはおならがすごい、ということだけという、子供のシビアな意見だけれど、Jugement de valeur、「価値観」というものを、彼らは先生からしっかりと汲み取っている。
世の中でいわゆる「マージナル」と言われるところに追い込まれる登場人物は必ず出てくる。それが癲癇だったり、アルコール依存症だったり、不倫だったり、生々しい。巻き込まれる子供は精一杯防御し、攻撃する。
「少女の器」の中で、アル中の治療中の母を見舞いに行きながらも、「おかんとは一生戦争や」「やらないとこっちがやられる」という登場人物の言葉は、同じ中学生でも、自ら命をたってしまう現在の子供たちにとっては有り得ない考えなのかもしれない。 子供時代に得たものは、地層のように個人の人格のベースの部分に眠っている。 それは何も、実体験や実際の親から受けた教育ばかりではなくて、 「読む」とか「聴く」とか「見る」ということによっても、文化を形成することができる。子供たちには、灰谷作品のように「生きている」ものにたくさん触れて欲しい。 それが、ひょっとしたらいつか「To be or not to be」という選択をしなくてはならなくなったときに、味方になってくれるかもしれないから。
灰谷健次郎さん、今まで育ててくださりどうもありがとうございました。 そして、これからも、よろしくお願いします。
いつか見ようと思いながらなかなか見る機会がなかったAltmanが亡くなってしまった。 CarverのShort Cutsを映画化した監督。
大学に入ってからというものそれどころじゃなくて、全く映画に行く余裕がなくなってしまった。それまで月に4~5本は見ていた(つまり週約一本のペース)のだけれど。
映画がle 7ème art(第7番目のアート)と呼ばれる国だから、ナントみたいな小さな町でも3歩あるけば映画館にぶつかる。昔の映画やら掘り出し物やらをこだわって見せてくれるし、値段も安い。
ナントでは毎年11月に3大陸映画祭というフェスティバルが開かれて、なかなか普段では見られない国の映画を見ることができる。 しかし、なんでこの、みんなが「travailler comme un fou(気が狂いそうなほど忙しい)」時期にやるかなーといつも思う。
ここのところわたしの中で「王様」の映画は、2002年の映画祭で審査員特別賞を取ったカルロス・ソリン監督の Historias minimas。
「そこそこいい、どこにでもいる人」しか出てこない、時間が静かに進むロード・ムービーで、主役はおじいちゃん。
アップのカットがものすごく多いのだけれど、ほんのちょっと出てくる人も、主な登場人物もみんなそれぞれものすごい味がある。 そして、みんなに共通して言えること、それは 「笑顔がものすごくきれい。」
パタゴニアのなーんにもない砂漠の中をうねうねと道路が走り、限りなく透明で、時間が止まったような深い青空、凍るような空気、駆け抜ける風。 その青さのような笑顔をみんなが持っている。 物悲しくノスタルジックなギターやアコーディオンの音楽も、 がらんとした家も、 さびしく眩しいカフェ「カリフォルニア」も、 賢いワンコも、 皮肉が少し効いた笑いも、 おいしそうなローストや、パイや、まずそうなケーキ・・・ なんだかすべてに癒される。
考えてみると、カミュやレイモンド・カーヴァーにも共通する「minimas」な雰囲気や、何気なさというのが、わたしは好きなのかもしれない (インタビューなんかを読むとカーヴァーは自身が「ミニマリスト」と呼ばれるのはあまりうれしくなかったみたいだ。作品を作るときはすごく早いらしいが、同じ詩人でもTed Hughesみたいなタイプとちょっと違って、カーヴァーは結構推敲をしていたらしい)。
温度を感じさせない、無機質な程透明な流れに、よく顔を近づけてみるとちかっ、ちかっと星が瞬いているのが映る、そんな感触。
カーヴァーはもっと乾いたアーバンな感じだけれど、このソリンの映画は凍るほど寒くまぶしく、やっぱり乾いた大地なのに、もっと温かく、やるせなく、ヒューマンな感じ。アルゼンチンならでは、な感じ。 登場人物一人一人が、なかなかいいやつじゃん、という部分と、ちょっとねぇ・・・という部分を合わせ持って出てくるからリアルだし、プロの役者がほとんど出ていない(パン屋役のマッチョなおじさんの本業はケーキ屋さんだったりするらしい)ところに味があるのかも。
タイトル「ヒストリアス ミニマス」はカメラの品名らしいです。ロードムービーを取るのに適したもので、この映画を撮るときに丁度監督の手に入ったらしい。 日本で上映されてないのかもしれませんが、こういう映画って、どこかでやっててくれるとほっとできていいのになぁ。
祈るということは、ものすごいエネルギーが必要で、 ものすごくエネルギーを頂くことができる、最大の励ましだと思った。
本日、無事バルザックLa Vieille Filleの口頭テキスト解析を終了。
ベルティエ先生は、別れ際に手を合わせて「どうか、君の最後の一年が無事に終了しますように!本当に祈っているからね」と言って下さった。
あー、いいひとやーあんたー。 30分ほどの口頭説明だけれど、一筋縄ではいかないバルザックの作品のなかでも、一ひねりも二ひねりもぐりぐりと捻り込んだ抜粋をあらゆる角度から検証するのは簡単ではない。 今回は、すごく楽しんでバルザックの世界を掘り下げることができた気がします。
ベルティエさんのような「先生の中の先生」タイプに「あんたの分析力も説明力も説得力も問題なし!」と太鼓判を押してもらえると、大きく温かい自信と確かさが自分の中にしっかりと育っていく気がする。
彼には文章を五感すべてを使って読む、読むというよりは、むしろ匂いを嗅ぐというような、文章を身体で感じる(と、文に書くと怪しいが)、そういう読解の方法を学んだ。文章とくんずほぐれず取っ組み合うというやり方を覚えると、今までやっていたのは、「読書」だったけれど、「読解」ではなかったなあと思う。
去年のコルメレ先生の言葉を借りれば、 「読む、とは筆者が閉じ込めた思考を解き放つ行為である」
息つく暇もなく、中国語の宿題とLe Bel Inconuに取り掛かる。 なんつうか、「何でも屋」だ、今のわたしは・・・こうなったらもう、どんとこい。 緊張と緩和の果てに、傘をどこかに置き忘れたことに気づく。 そういえば、去年も英語のエクスポゼの後、やかん頭をのっけてボウフラのように帰って、傘を忘れた気がする・・・。
学習しないなあ。
「解く」とは 「徳」になること、という。 そうして、こんがらがったものが「解けた」とき、 その意識は「溶ける」。
溶けないで残っていたら・・・? それはまだ「解け」ていないのだ。 だから「徳」にもならない。
本当の酔っ払いは「酔ってません!」と主張する。 だから女の子の「酔っ払っちゃった・・・」てのは、例外もありますでしょうが、多くはしっかりした状態での発言です。気になるあの子がこう言い出したら、男性の皆さん、間違っても「じゃ、タクシー呼んであげる」などと言ってはいけません! Je ferme la parenthèse.
つまり、どんな状態や理想も、それが自意識の中に溶けずに残っているとき、それはまだ完全に実現されてはいないのだと思う。 完全に実現をされるということ、それは「昇華」だと思う。 だから、マインドの中から消えてなくなってしまう。 溶けてしまう。 てなことを、朝、太極拳をやりながら思った。
しばらくご無沙汰をしておりました。 2006年もあと2ヶ月を切って、今が丁度激戦且つ混戦極まる状態です。
一昨日コルネイユのL'Illusion comiqueの小論文を提出し、 昨日から、月曜日のバルザックLa Vieille Filleのテキストの口頭解析の準備に入っています。
L'Illusion comiqueは、いわゆる「入れ子式」になっている劇で、作者自身が「Un étrange monstre(わけのわからん怪物)」と呼んでいる位、あらゆる規格をはみ出している作品です。時間と空間を捻じ曲げるすごい手腕。
バルザックの方は相変わらず難しいのですが、この「老嬢」という作品は特に「解剖小説」として凄まじいです。女体解体!しかも一言もエロティックな言葉を使わない。 心の動きを人間の器官を通して表現することができるのは、バルザック以外にはいないのでは・・・。この作家にとっては、医学者=詩人になるらしい。
最近、もっとも苦手としている数学(というよりわたしの場合は「さんすう」からやり直したほうがよさそうなのだけれど)や物理をやりたくて仕方がなくなっています。 方程式を見るとドキドキします。(現在のお気に入りフラ語第一位が「équation(方程式)」。こういうバカなことは他の外国人フラ語ユーザーはしないのだろうか・・・) 「解く」力、文学や語学って実生活には役に立たないなんてこと、ありません。 その、解く力を普段の暮らしに応用すればいいだけ。 どんな風にわたしにはそれができるか、提供できるか、わたしなりの方程式を作るのに、今は夢中になっているのです。
ムールとフリットは決して分かつことができない、星君には伴君がいなくてはならないのと同じくらい。
SさんとMさんに付き合ってもらい、念願のムール・マリニエール フリット付きを食べに行く。 ムール・マリニエールは、ムール、刻んだ玉ねぎとエシャロットを白ワインとバターで蒸し煮したもので、この汁にフリットをつけて食べるとうーんまーいのです。
フリット、フライドポテトといえば、イラク関連でフランスが軍隊投入をしないことに対する抗議として、アメリカンな人々が「フレンチ・フライをフレンチ・フライト呼ばない運動」をやっていたことがありましたが、今は「フレンチ・フライ」と頼んだらフレンチ・フライを出してもらえるのでしょうか・・・?
さて、方々で顰蹙を買っているのですが、実は、私はフランス料理が好きではありません。
フランスにいながらそれはないだろう!との突っ込みは数知れず、そしてこの発言に父(料理人・エスコフィエのスタイルを基本とするクラッシックなフランス料理が専門)は泣いた・・・
ごめんよ、父さん!娘はごはんとお味噌汁の国の人なのよさ・・・。
ま、ま、そりゃね、おいしいです。
でも、もう一度食べたいって思うものって本当に少ない。
このムール・オ・フリットはそんな数少ない「あの時の味わいをもう一度!」なのです。
初めのおいしさは、二度とは味わえないと知っていながら、やっぱり追いかけてしまう。 料理は五感で味わうもので、その時のシチュエーションがものすごく影響すると思います。だから、はかなく、力強い。
一番心に残っていて本当においしかった「フランス料理」は、と言われると、ヴォージュ広場にある小さなカフェで食べたアンチョビーのサラダ。 この時、わたしは傘も持たずに雨の中を歩き続けヴォージュ広場までやってきて仕方なく入ったのだけれど、ウェイターのお兄さんがとてもプロフェッショナルな人で、ずぶぬれでお「一人さま」の外国人にも嫌な顔ひとつせず、丁寧でタイミング抜群のサービスをしてくれたっけ・・・。
こういう人は、目配せひとつで何もかもが伝わり、それだけでも満足気分にほかほかします。 次にこのカフェに行って、同じものを頼んだとしても、きっと同じ満足は得られない。 わたしが同じようにひもじく疲れていて、同じウェイターさんに出会い、同じように息の合ったタイミングを作るチャンスはほとんどありません。
こうやって考えると、料理ってなんて儚いんでしょ。だから美しい。
帰り道、川面をちかちかと揺れる橋の明かりの中を、トラムが緩やかなシュプールを描きながら上ってくるのを見て、Sさんが 「このまま夜空にのぼっていきそうだなあ・・・」 とつぶやく。うぬぬ・・・詩人・・・。 とてもミスドでカスタードたっぷりのドーナツを3個ほおばる口から漏れたとは思えない、リリックな味わいがございました。
(写真はCuisines des pays de France © 2001, Edition du Chêne, Hachette-Livreより)