朝、読売新聞の書評を開いたら、Hさんこと橋本一径さんの「指紋論」が載っている。元ナント番長の著作とあらばぜひ読まねばと、図書館に本のリクエストをした。できれば買ってください・・・とつっこまれそうです。「ドアーズ まぼろしの世界 When You're Strange」を観に行く。 前回のストーンズのような1日限定ではないのに整理券が出ていた。今回は当日券で上演直前に滑り込む。客席はレイ・マンザレクのもみあげのようにもっさりとしていた。一見すると、ジム・モリスンよりもヤバそうな瞳のレイは「天空の城ラピュタ」のムスカ大佐のようだった。 メンバーは「天国と地獄の狭間にいる」ジム・モリスンの作り出すカオスに巻き込まれていたようでいて、その実彼を操る術を知っていた。ジムがドラッグや酒から抜けられなかったのはコントロールしようとする人々から逃れたかったからなのか。ジョニー・デップのナレーションは悪くない。 図書館に「ジム・モリスン詩集『神』『新しい創造物』」もリクエスト。同日に指紋についての本とLSDアルコールでキメキメだった人の詩集を頼んだので、ちょっぴり「ファンシーな」人だと思われているかもしれない。しかも丁度アンリ・ミショーを借りて返しそびれていたのだった。わたしがやったことあるのは、新大久保で求めた「合法」と注意書きのあるものだけです。
Ce qui ondule (そこにうねるもの)
mots morts
9月に、昨年に引き続きピーター・バラカンさんが高田に来られたので出前DJを見に行ってきた。話の中で「エティオピーク(Éthiopiques)」というコンピアルバムシリーズが紹介された。フランス人のFrancis Falceto というプロデューサーとBuda Musiqueというレーベルが60~70年代にエチオピアで発売された「エティオ=ジャズ」ものを集めて再編集したもの。そういえば昔ラジオで聴いてへぇ、こんなシリーズがあるなんてマニアックだなぁと思ったという記憶がどどどと蘇ってきて、すぐCDを手に入れた。
10月に、一日だけシネウインドで「Stones in exile -メインストリートのならず者の真実-」が上映されるというので見に行った。背中にあのベロマークがついているジャンパーやらキャップやらでたぎるやる気をチラリズムさせたおっさんとかがうじゃうじゃいたのだが、一番恥ずかしかったのは整理券が1番だった私自身だった。だって、事前に問い合わせたら、えーと今日予約してもらってお金を、あ、お金は明日明日朝19時から料金と引き換えに整理券出します、あ、引き換えは11時からだ、入場は19時ごろねとテンパった口調で説明をされたから、お昼近くに売り切れてるんじゃないかと恐る恐る行ったのに。とまれ。
映画の中で、「カジノ・ブギ」の歌詞が決まらず、ミックとキースがそれぞれ思いついたフレーズを書いた紙の断片をシャッフルして作っているところが映し出されていた。 まあそういう背景があって、「歌詞を作ろう」という授業ができました。
フランス語の授業で現代音楽を使う時、歌詞を読むとか聴き取るとかが一般的ですが、あまりぞっとしない。ためにはなるし、ヴァンソン・デレルムのような人の歌詞だったら短編小説を読んでいるような面白さがあるけれど、初級~中級にはちょい難しい。それで、むしろ聞いたことのない言葉で歌われている、あるいは聞き取れないようなフランス語の歌を聴いて、その曲調やリズムから想像して自分で歌詞を作ってみたら、そして、それをみんなでシャッフルしてひとつの詩にしてみたらどんな風になるのかと、半ば実験的に土曜日のアトリエでやってみたのです。 音として使ったのは先のÉthiopiquesシリーズの8作目 「Swinging Addis」からBahta Gèbrè-Heywètの「Tèssassatègn eko」という曲。それにしても、フランス語の言語学的にはありえない位置のアクソン・グラーヴ(eの上についているアクセント記号)がぞろぞろと並んでて、それだけでリズムがとたんた、とたんた、と聞こえるような気がしてしまいます。エチオピアの公用語であるアムハラ語アルファベットというのも染色体が踊っているような文字。
この日の参加者であった二人の生徒さん達は、もちろんアムハラ語(であろう)歌詞でモ~ヒ~ラママ ンゲ~と歌われても意味がわからないので、聴こえたものを元に、自分なりに思いついた言葉やフレーズをどんどん書き出し、その断片をテーブルに並べていく。かぶる言葉もいくつか出てきた。面白い。 そうして出来上がったのが次の詩。
Danse avec moi 僕と踊ろう
faisons des rythmes リズムを取るんだ
flappons nos mains 手を叩いてさ
je prends tes mains 君の手を取るんだ
marchons ensemble 一緒に歩こう
on n'est moins solitaires 前より寂しくないだろ
les oiseaux chantent 鳥は歌ってる
ici assez des fruits ここは果物だって一杯さ
le soleil rouge 太陽は赤く
le ciel bleu 空は青い
le nuage blanc 雲は白く
le vent souffle 風は吹く
on est bien toi et moi 君と僕、いい感じだろ
marions-nous, si tu m'aimes ! 結婚しようぜ
僕が好きなら ええなんかわたくし感動してしまいました。SさんとKさんの二人はもはやe-corのキース&ミックと化し、Yehこれでどうだいキース、待ってくれミック、こっちの方がエキサイティングだぜ、などと言ったりしたようなしなかったようなクールなミーティングののち、見事にグルーヴィンな作品を作り上げたのでした。
元歌詞(仏語訳)は一見ブルースぽい。
Je n'ai plus ma tête à moi. 俺はもうふわふわしちまってんだ
Je ne mange plus, je ne bois plus, 食べたくないし、飲みたくもない、
je suis dans une histoire trop compliquée. 俺の手には負えないとこまで来ちまってる
Que gagneras-tu si je meurs d'amour ? もし俺が恋に焦がれ死んだら、お前にとって何の得になるっていうんだ?
Je ne reconnais même plus mes amis. もう友達の顔さえわからなくなっちまうほどだっていうのに
けれど、曲調はバリー・ホワイト系ダンス・ミュージックで底抜けに明るい。 元歌詞と生徒さんたちの作品は丁度表裏のように同じテーマ「お前に夢中」を表していた。いったいこれは何なのだろう。 言葉として理解しているわけではなく、調べの中に流れる何かを生徒さん達はキャッチし、自分の文化や概念に照らし合わせて(フランス語に)変換した。それが、実際に歌われている内容とどこか似通っているというのはとても面白かった。彼女らが「受け取った」ものはいったい何だったのだろう。
終わった後、桃色紙の断片の山を見て、ふいにわけがわからなくなる。ここにあるものはなんだ?この「歌」の断片たちは、さっきあれほど活き活きしていたのに、今その秩序を失って、しん、として死んでいる。断と片。なんなんだ。
Ainsi va le monde (西から昇ったお日様が東へ沈む~)
ペンケースをかばんから出そうとしてうっかり落としてしまったら、中から修正テープがものごっつい勢いで飛び出して自爆した。白と透明のこんぐらかったテープと、からからの歯車、それらを閉じ込めていたまっぷたつのケース等の屍骸をかき集めながら、世界のパンチラを見てしまったような気がした。 Panchira : "le fait de jeter un coup d'œil à la dérobée" とWikipédia.frには書いてあるが「パンチラ」は状態であってそれをこっそり見る行為は示さないのではないのか。示すのですか。そうですか。 タイトルの訳は尋常ではありません。あしからず。
L'effet secondaire (副作用)
なんにも言えね。
昨年、『好酸球性肺炎』という、一見アスリートがかかりそうな名前の病で入院してから2ヶ月に一回の検診を受けている。
なんらかのアレルゲンに対するなんらかのアレルギー反応で起こる肺炎で、私の場合、アレルゲンは多分アレだとわかっているもののはっきりと断言するのはアレらしい。なんか、あれだね、こう、あれだよね。
治療の関係で、今回は耳鼻科でCTを撮ることになり先日行ってきました。去年撮った時はただ白くでっかい輪の中に寝て入っていくだけだったのだけれど、今回は「造影剤を使います」と言う。バリウムのように飲むのかと思ったら腕から点滴で入れるというのだから、それだけで半歩後ずさり、そこに追い討ちをかけるように先生が隣の看護師さんと微妙に顔を見合わせ、
「肺炎の時は使わなかったんだっけね・・・うーん、稀にね、具合悪くする人もいるからね、肺炎ね・・・うーん」
と言いながら私に同意書を差し出す。いたずらに不安を煽るとしか思えないこの独り言が「医師による適切な説明があった」ことになるんでしょうか。まあ、いままで、その類で「具合が悪く」なったことはなかったので、持ち前のオプティミズムを発揮してサインをしてしまった。
細長いベッドに寝て、胸の前で手を交差するどことなく乙女チックなポーズでぐるぐる固定され、あんぐりと開いた白いドーナツに胸の辺りまで入って放射線をさんさんと浴びる。いよいよ点滴の登場。
私はとても細いペン先で書かれた文字とか細かい模様とかが比較的苦手で、なんかもうわーとなってしまうので、注射もあまり得意でない。しかも、それが自分の体内に入ったままという異物混入感にも軽く恐怖を感じる。覚せい剤とか絶対できないね。すでに心拍数があがっているところに、看護婦さんが「私がここについていますから、具合がわるくなったらおっしゃってくださいね」と励ますように言う。かんごふさんのこういうところをかんちがいしてかたおもいがはじまるのかしらん。
「それでは造影剤入れますね~」というスピーカーからの声が聞こえたとたん、体の内側がぶわわとあっついようなさむいような不思議な感覚にじわじわ犯されていく。なんか入ってる、血管に。「わわわわ、わ~」34年生きてきて己の身体に異物が入る経験はそれなりにあったけど、血管プレイは最悪よね。ヤバイ。発作が起こる前の気道が狭くなる予感がする。心臓がバクバクする。早くやっちまってくれ、や、もうわけがわからん、「窓から飛び降りるわ!」という美輪明宏の声がジァンジァン回る。
結局、撮影は中止せずになんとか終わったのですが、よくわからないダメージを受けてしまい、呆けたまま病院を出てそのまま夢遊病者のように図書館に行き、気がついたら「人間失格」を手にしていました。
昔付き合っていた人は、最初のデートでわたしを三鷹の禅林寺に連れて行き、これが森鴎外。森林太郎て書いてあるけど、とお墓に買ってきたおすしをお供えし、自分もむしゃむしゃ食べ、こっちが太宰の墓、とビールをお供えし、その前で黙って迎酒をした。普通の二十歳前後の乙女ならどん引きどころか確実に全力で逃げていたであろうどん底デートプランに脱帽というか脱力。普通の二十歳前後の乙女規格からはみ出ていたわたしは、当時劇団を辞める辞めないですっかり参っていて、うっかり着いて行ってしまった。合掌。
造影剤には、過去を陽炎のように映し出すという結構危険な副作用があったみたいです。
ゆく歳くる歳
ナビ君のおかあさんより今年も手作りの干し柿を頂く。この干し柿とブラックコーヒーで一休みするのが待ち遠しくなる。太陽をたくさん浴びた柿はエネルギーに満ち満ちて、甘すぎず、けれど温か。こういう柿のような大人になりたい。
日曜日、EXTENSION 58を見に行く。ライブハウスは久しぶり、と思ったら7月以来だった。そうか、9月のは海の家だったもんね。 彼ら4人を見ていて、うらやましいなと思う。音楽を自由に演奏できるなんて、恵まれている。何かを発散できるっていい。「若者」と呼ぶにはもう熟れ過ぎて(ごめんなさい)、「オヤジ」と呼ぶにはまだ瑞々しい。青い過去への微かな追憶、けれどその残滓を集めているわけではなく、素直に歳を重ねて立っている。男の人って歳を取って出てくる魅力というのがあるから、少しずるい気がする。男の子の仲間に憧れて「男になりたい」と思っていた少女のわたしがゆらり現れた。 入ったらちょうど三条のバンド「ジェンドゥ」が演奏しているところだった。一瞬、詩が耳にはっきり飛び込んで来たからはっとした。 はっとしたけれど、頭がぼんやりしていて留めることができなかった。「月のない夜に」「二人で」何かを「証明」しに行こうというようなものだったんだけど、これは若さが語る詩だった。若いっていいね! などといっていたのだけれど、エロ本とかアダルトDVDのカテゴリによると、わたしはすでに「熟女」にカテゴライズされることがわかって軽く意識が遠退き、精神年齢の低さをもてあましながら吉野家のかけそばをすすった夜なのでした。 iPodで動画を撮ってみようと思ったのだけれど、どうしてもなんか照れくさくて録らず終い。なにがどう照れくさいのかよく自分でもわからない。そういうことごちゃごちゃ考えている自分もシャラクサイのであった。
L'envers et l'endroit (裏と表)
「場所」とは「おもて」のこと。フランス語で両方「endroit」。「ランヴェール エ ランドロワ」って軽く口(くち)スタシー。カミュの作品タイトルはそういうの多い。
ちょっと前、悪夢の連続記録更新。 一番狡猾で怖かった夢はあまりにも怖かったから方々で話したのだけれど、こちらがその恐怖たるやと、熱弁をふるえばふるうほど聞く方の興味は反比例するというのはよくあることで、事実、先日、マンガか一昔前のドラマのありがちなシーンのように叫んで飛び起きたナビ君の悪夢は、苦手な犬の吠え声(という設定、実際は別に嫌いでもない)のCDを拷問のように聞かされ続け、急に天空に連れて行かれて呼吸困難、同時に職場の同僚に肛門を責められる(具体的にどういう「責め」なのかは明らかにされず)というもので、悪いけどもうなんかしょーもな、という感想しか出てきませんでした。
それに比べると多少はましな気がする我が悪夢を、性懲りもなくここで披露しますと。
私は巨大ビルの1階にいて、目の前に丁度同時に上りのエレベーターが二つ到着する。AとB二つのうち、Bはなぜかトラップで、上っている途中で事故が起こるようになっている。それをなぜか私は知っている。 知っているからAに乗るんだけれど、Bに乗ろうとしている人達に「それはワナですよ」と伝えようかどうしようか迷っているうちに、Bは閉まってしまう。仕方なくAに乗る。ああどうしよ、どうしよ、と思いながらエレベーターは上がって上がって、地上何メートルというよりは、むしろ大気圏?なぜか周りが全て透けて見える。隣にBのエレベーターが上がってきている。
ここで、Bのトラップが発動されるわけです。ドリフばりに四方の壁が外側にぱたんと倒れて、床も抜ける。乗っている人達は阿鼻叫喚の形相でふっといエレベーターの綱につかまっているわけです。それを、こっちの安全Aの中で猛烈な罪悪感に苛まれながら見ていることしかできないずるいわたし。くるしい。
この間、ヨーガの代わりにキネシをやってもらった時、今一番欲しい物は?という問いに「安心」と答えた自分の声にびっくりした。今言ったの誰?あたし? 「まりちゃん不安なんだ、居場所がないんだね。」と、ずばり、私の悪夢なんたらかんたらエピソードを我慢強く聞いてくれたアロマレーヌの真木さんは言いました。居場所。ないです。
別に、意地悪されているとか、虐待にあっているとかそいういうんじゃなく、自分が勝手にそう感じてしまっているだけなんだけど、どうしようもない。今リアルに生活しているここは、自分の「居場所」じゃないって、はっきりわかる。
なんとなく落ち着かない、というのは前からどこにいても感じていた。引越しも多い。 東京に居た時は七年で3回。ナントでは5年で3回(うち、下宿先のおばはんと喧嘩して追い出されるというやむなき事情もあり)。・・・気づかなかった・・・「引越し魔」と言われても否定できんよ自分・・・。 だから、やー、しっくりくるわあって土地に出会った時、ものすごい嬉しかった。もう、あたい恋してるって位ぞっこん好きになった。テンションが上がるというよりもしっくりくる。落ち着くって、こういうことだったのか。初めて訪れた時、あれがあったんです。「デジャヴ」。既視感。フランス語。Déjà vu(デジャ・ヴュ)「既に見た」。小さい時に見た風景にどこか近いものがあっただけかもしれないけれど、親近感ってすてき。
場所ってそんなにこだわったりしなくて、ナントから帰ってきた時も別に新潟に落ち着くつもりもそんなになくて、なんだか自分が本当に生きているのか、そこにいるのか、常に5センチ位浮いているような気分だった。そんなだから、明確に「向いてる」所が自分にもあるということがすごく嬉しい。新しい家族ができたみたいで。
昔、しぶしぶモン・サンミシェルに行ったことがあって、あの修道院を作ったお坊さんの脳天に穴が開いたエピソードは好きだけれど、マレ(潮)も引いてカラカラしてて、当たり前に観光客だらけで、やっぱ来るんじゃなかったと足取り重く石畳の道を下っていた。そしたら、前の初老フランス人グループ中のおじさんがものすっごい大きいおならをした。もうそれは張り裂けたでしょうよという破裂音で、後ろにいた私まで吹き飛ばさんばかりの爆音だった。
そのあまりの破壊的な潔さに思考停止した私はおじさんをガン見してしまったら、羞恥心ゼロというより、むしろどや顔のおじさんと目があった。奥さん(と思われる)があわてて、もうやめてちょうだいよ、とたしなめるが、みんな笑ってしまった。周りの人みんなが笑っていた。おフランスのおっさんもやっぱりいい年になると腸の働きが落ちてやたらおなら自慢する人がいるし、その奥さんの止めっぷりもやっぱり万国共通なのかも、と温かくなった。
以来、「モン・サンミッシェル」という土地は世界遺産という「オモテ」の認識より、むしろ「おならのある風景」として私の中の珍百景に裏登録されてしまったのです。