Roman Comique
Scarron
ポール・スカロンの「ロマン・コミック」の小論文を書き上げました。
「comique (コミック)」は、本来「滑稽」という意味ではなくて「役者の」という意味。
日本語や英語だとコメディアンはお笑い系を示すけれど、フラ語では「舞台役者」という意味で使われる。もともとコメディというのも、「戯曲」という意味で使われているので、「喜劇」のみを純粋に示すとはいえない。
だからバルザックの「人間喜劇(La Comédie humaine ラ・コメディ・ユーメンヌ)」は、そういう意味では翻訳にちょっと問題がある。
バルザックが描いているのは喜劇、悲劇、表裏全てを調合した人間の世界だから、本当は「人間劇」と言ったほうが近い。
ちょっと読んだことがある人はわかると思うけれど、バルザックは喜劇よりどちらかというと悲劇と思われる一面を描いている作品が多い。死で幕が下りることが多いし、彼が生きた19世紀のフランス・ヨーロッパ社会の水面下でうごめく人々、みんなが目を向けようとしないものにも光を当てる。きれいなところも、汚いところも、へんなところも、至高の行いも、矛盾したすべてが人生だというのが「人間劇」として描かれる。
ちなみに対極に「Tragédie(悲劇)」があるので区別のために、今は「戯曲」という意味には「pièce de théâtre(ピエス・ド・テアトル)」を使います。悲喜劇(Tragi-comédieトラジ・コメディ)というジャンルもある。
スカロンの「ロマン・コミック」は、バルザックより前の時代に書かれている(第一部は1651年に出版)。「役者の」という意味の他に、「滑稽」の意味だってもちろん含めてこのタイトルをつけたのでしょうが、分類好きなフランス人は「小説(ロマン)」と「戯曲(コミック)」をあわせたこの言葉に「イロジック!(非論理的)」だと非難が紛々だったそうです。
フランス人はなにかっていうと、「論理的」とか「非論理的」というのが好きなんだが、「合理的」という人は少ない。だから後先を考えずに目の前のことに猪突猛進し、信じられないほど不器用です。「哲学」や「分析」がそれだけ国民的にできるんだったら、もうちょっとそれを実生活に生かせばいいのにと、いつも思う。
わたしの愚痴は置いておいて。
話は2部に分かれていて、2部の途中でスカロンは筆を置いたまま戻らぬ人になってしまった。3部で全てが完結するはずだったらしいというのが、残された原稿でわかる。
旅回りの劇団一行が主人公。彼ら旅芸人の生活風景、役者というものが17世紀のフランスではどういう社会的位置だったのか、芝居がどのようにして行われたのかというドキュメントにもなる描写に加えて、主人公たちの隠された姿や過去バナが語られる。スペインの小話はまるで「千夜一夜物語」のようだし、もちろん恋、決闘、手紙の行き違い、誘拐は外せない騎士道物語でもある。
そんでもって、下ネタ満載。
主人公たちは、程よくステレオタイプであり同時にオリジナリティな人々。
Le Destin ル・デスタン(「運命」という意味)
陰のある美青年。才能のある役者ながら、剣も使う騎士。隠された出生、旅芸人になるまでの過去、そして秘められた恋が徐々に明かされていきます。
La Rancune ラ・ランキュン(「恨み」)
一座の元締め的存在。いい年こいたオヤジながら、たちの悪いいたずらを止めない。人を困らせる天才。役者としては同時に王様と女王様と手下役をやってのける落語家みたいなひと。演出もし、時には戯曲も書く。
L'Étoile レトワル(「星」)
一座の花であり文字通り「スター」。美しい容姿と演技の才能に男性ファンが絶えず。表向きル・デスタンの妹となっているが、その物静かな様子、デスタンとの間の強い絆の裏には、やはり秘密が。
Ragotin ラゴタン (「Ragot(ゴシップ、おしゃべり)」から来ていると思われる)
舞台作家。途中で一座に出会い、彼らについて回る。スケープゴートのような存在でラ・ランキュンによくからかわれる。背が小さく、彼の行くところ小競り合いとパニックが耐えない。そしていつも犠牲になっておこり泣きするのはラゴタンのみ。
などなど。
フランスのル・マンの田舎の旅館やシャトーがほとんどの舞台でありながら、語られる話はイタリアだったりアフリカだったり、スペインだったり・・・。
仮面で顔を隠された婦人に恋をする男。
親に反対された結婚から逃れるため恋人と逃げようとしてムーア人に身売りされた女の子が、男装して最後はヴァレンシアの総督にまでなり、失われた恋も取り戻してしまう女。
暗闇で鉢合わせする2組のカップルが相手を取り違えたり。
騙した男を追いかけて結婚を邪魔するために活躍する女。
一人の女を忘れられない男。
明るく人情に溢れる魅力的な人々を描き、読み手に語りかけるエネルギー溢れた作者だが、実は彼は両足が麻痺しほとんど動けない状態だったという。
ファンタジックな「おとぎ話」のイメージと同時に、「コミックマシーン」ラゴタンが作り出す強烈な笑いの数々。
レトワルに横恋慕し、旅館の各部屋に置かれたおまる(昔のトイレの代わり)に足を突っ込み抜けなくなり、酔っ払って追いはぎにあい、裸で神父とシスターを追いまわしたあげく蜂の巣箱をひっくり返す。
スカロンが語り手であろうと思われるこの小説では、ナレーター自身が読み手にしょっちゅう話しかけてくる。タイトルに「あんまり気晴らしにはならない話」とか「続きを読んだらわかります」とかもよくあるし、話の途中でつっこんできたり、登場人物の名前を忘れたり。(タイムボカンシリーズの「解説しよう!」の声の人を想像してください。あんな感じ。)
さすがに17世紀にもなると、昔のフランス語になってくるので、今は使わない言葉も多い(仏日辞書がどんどん使えなくなってくる・・・。)。かなりふざけたり皮肉ったりな内容ながら、やはりレトリックは凄まじく美しい。
更に、スカロンは本当に鋭く社会を観察していて、その一員としての人々、階層の上の人も下の人も、それぞれを皮肉りながら様々な登場人物に反映させて私たちに見せる。いいやつも悪いやつも、みんなそこにいる。わたしたちの現実世界のように。
一見ただの「お話」と捉われがちな小説だけれど、芝居を通して繋がる人たちがいて、語り手が読み手を参加させようと常にこちらに気を配り、ひとつひとつの話に大勢の人がわっと登場する。
目の前に繰り広げられる様々なシーンを読んでいると、いつの間にか芝居を見ているような感覚に陥る。それが、「ロマン」と「コミック」をくっつけたスカロンの狙いだったのかもしれない。
みんなが集まって食事をするシーンもたくさん出てくるし、よく笑い、よく酔っ払う。
わたしは今、個人的なプロジェクトとして一種の「集まる」ということを実現しようとしているけれど、一体何のために人は集まるのか、というのをよく考えていた。
ミクシィもそうだと思うけれど、人々は集まりたがる。人と同じ集まりが嫌で、「自分たちは他とは違う」という方針で集まりを作るという、よくわからない状況も出てくる。
「集まる」ということが、昔からどうも苦手なわたしが集いを創るって言うのは不可能じゃないのか?とも思う。何しろ、「集団トイレ(女の子の友達同士が必ず一緒にトイレに行かなくてはならないという謎の掟)」がどうしても出来ない中学生だったから、集い下手キャリアは長い。今の中学生はそんなことしないのかな。
集まる目的が、寂しいからということ。
自分に注目して欲しいからということ。
そういうものを抱えながらも、それを超えたつながりを創る集まりは、スカロンが描く「コミック」な人々のように、力強く、温かいんだろうと思う。
ラルゴ
PIANO PIANO...CHI VA PIANO VA SANO... CHI VA SANO VA LONTANO....................
「祭り」のあと、あなたは誰を思う?
"PROVERBE ITALIEN qui veut dire : LENTEMENT LENTEMENT.... QUI VA LENTEMENT VA SÛREMENT.. QUI VA SÛREMENT VA LONGTEMPS... ou un proverbe français QUI VA LOIN MÉNAGE SA MONTURE . Économisez vos forces pour durer le plus longtemps possible tout en restant efficace." 英語のスピーチの準備が終わらず朝の6時までかかったという私に、いつもお世話になっていてフランスの祖父のような存在(彼はわたしを「娘のような」というが)のバベ氏がくれたメールの言葉だ。 「イタリアのことわざでこういうのがあります: 『ゆっくりと、ゆっくりと・・・ゆっくりはしっかり・・・しっかり進む者は長続きするよ・・・』 または、フランスでこういうことも言います: 『遠くへ向かう者は己の馬をいたわる』 常に最高に、そして出来るだけ息の長い力を発揮できるように、セーブして行きなさい。」 英会話を始めたのは小学校3年生の時だった。オーストラリア人やアメリカ人のあんちゃんたちと犬のように転げ周り、おしゃべりを止めないから「スピーカー」とあだ名されながら、わたしは英会話教室が楽しくて楽しくて仕方なかった。 英語自体にはそんなに興味がわかなかったけれど、お陰でガイジンに対する変な恐怖感はまったく私の中に生まれなかった。 高校まで英会話は続けたけど、あまり上達はしなかった。それから10年もたって、フランスの大学で英語にうなされるとは思いもしなかったぜ・・・。 そして、去年1年の時の英語の成績を知っていながら、わたしに日本文学と英文学におけるファンタジック・ヒーローの比較についてのスピーチをさせるマダム・スリニャックも、かなりの冒険野郎だと思う。 さて、テーマにしたのは宮沢賢治。銀河鉄道の夜はあんまり好きじゃなかったんだけど、授業で取り上げた「アリス」や「ピーターパン」などの不思議の国で活躍する子供に匹敵するジョバンニを中心にした。19世紀の日本文学ではこういうタイプのヒーローを見つけようとするとなかなか難しい。 「南総里見八犬伝は?」というナイスな友人の案を取りたかったが、ヒーローが子供じゃないんだよねぇ・・・。 賢治といえば、「注文の多い料理店」が大好きだった。絵本をぞくぞくしながら何度も読んだ。「雪わたり」の「きっくとん、きっくとん、きっくとんとん」という言葉のリズムも好きだった。 ちくま文庫からでているロジェ・パルヴァースの英訳をたまたま見つけたのだけれど、彼が翻訳を始めたのは日本語の訓練をするためだったというのが興味深かった。 賢治の様々な面を紹介しているサイトを調べてやっと40分ほどの原稿に仕上げたら、朝6時だったわけだ。 自分の脳みそから全て出た言葉ではないから、原稿を読んでも聞いている人たちの思考の上を滑っていくだけだとわかっていた。だから、とにかく、なんとか自分で感じ、その場でめちゃくちゃでもいいから生の言葉を伝えるしかないと思っていた。 絵本を見せるのも一つの手にした。 スピーチの目的は、「へえ、日本の文学にもこういうのがあるんだ、おもしろそうだな」という生徒を一人でもゲットできたらよしとした。 結果は成功した。 授業のあと、数人のフランス人生徒から囲まれて、話の続きはどうなるのか、銀河鉄道はどっからきたのか、と質問された。 こんな風に接してきた人たちは初めてだった。 次の授業を待っている間に、別の女の子が一人話しかけてきた。 「あなたのスピーチすごかった!日本語とフランス語を話せるだけでも、すでにすごいのに、更にもう一ヶ国語も使いこなせるなんて、いいなあ!」 それは誤解です。 わたしは、英語が本当に「nul(下手っぴ)」だと言った。謙遜とかではなくて、去年の成績だってとんでもなかった。 試験は大体がテキストの抜粋の説明なんだけれど、フランス風のきちんとした枠組みに従って英語で説明をつけていかなければならず、やったことのなかったわたしは何を書いていいかわからなかった。 という話をしたら、彼女は「わたしが図書館で見つけた説明文の構成の仕方の本があるんだけど、それをシートにしたのがあるの」とカラフルにパソコンで打ち直された紙を一枚ひらりとだし、「はい」とわたしにくれた。 「わあ、ありがと。じゃあ、コピーして返すね」といったら、「ううん、パソコンに原稿残っているからいいの、あげる」とにっこりした。 「・・・!!!」 この話を、日本の友人に話したら、彼女は即座にこう言った。 「いいものをね、貰ったら、お返しがしたくなるんだよね、人は。 彼女はまりのスピーチを聞いて、何かを受け取ったんだよ。それがうれしくて、お返しがしたかったんだよ。」 彼女は女優だ。ダンスもすれば演出もする。わたしが大好きな役者だ。 やはり、そういうことを知っていたから彼女のやるもの、彼女がわたしに紹介する人々はみんなあったかいんだなと思った。 スピーチの終わった直後は暫く「お前はナニジンだ」という謎のミックス語しか話せなかった。旅行でもしない限りまともに英語で話も出来ないのに、40分もスピーチをした後遺症はひどい。でも、これで少し脳みそが活性化されたかもしれない。 徹夜して、へんなボルテージが上がったまま、コーヒーしか入れていないおなかはいつものように催促もしない。 放心した頭をかかえながら、思いも寄らない喜びを英語のクラスの人たちから貰って、余韻の中でわたしはゆらゆらしていた。 久しぶりに身体を使って「表現」をしたなあ、と思った。役者だったときの感覚が目覚めているのがわかる。役者と乞食は3日やったら辞められないというけれど、この「祭り」の爆発を味わったことがある人は、ふむふむとこの言葉にうなずくんだろうな。 そうして、それが静まった時、ふと思い出す顔がある。 飲み会のあとでも、コンサートのあとでも、 わっと感情が高まった後のしんとした静けさの中で、 一番先に、ああ、このあったかい波のようなものを伝えたいな、と思う人が、あなたにもいるだろう。 それが、あなたが一番想いをかけている人だと思う。
Père Noël est un...
サンタさんへ。今より3倍能率のいい脳みそがほしいです。 まりより。 あんまりいい子じゃないから、今年は来てくれないかもしれない・・・などと心配する29歳。
LE POURQUOI
「なぜ」がないと、弱い。話をするにも、 話を聞くにも、 書くのも、 行動するのも、 理解をするためにも、 「なぜ」は必要。 ここのところ、ずっとひっかかっていたある人の言葉 : 「なぜ、僕のことがいいとみんなが言うのか、わからない。」 彼は、プロの「表現者」。 つまり「彼はいい」とか「彼はよくない」とか、常に、あからさまに人から評価されるシチュエーションにいる。 彼は決して自惚れの境地で調子をこいてこんなせりふを口にしたわけではない。本当にわからずに、心の底から絞り出た疑問のようだった。 初めはその言葉をどう捉えていいかわからなかった。 わたしが彼を「いい」と思えないわけではない。 なのに「これだ!」という答えがない。「好きな理由」というのが、何を言っても通り一遍の薄っぺらなものに聞こえて、言えば言うほど彼のことを貶めていくような、よくわからない悪循環に陥った。 何をどんな風に言ったって、彼は納得しないんだと気づく。でもまてよ、その前に、この質問はするべきものなのかな? 例えば、好きな人に大決心して、面と向かって告白したとします。 相手に「なんで?なんで僕(または私)なの?」と聞かれたら、 「いや、それはその、つまり・・・や、やさしいし・・・」 と、急に言葉がはっきりしなくなったりしないでしょうか。 すきすきすきすき!というピンク色のスパイラルを切り裂く青い「なんで?」。 これは、しちゃいけない質問で、答えちゃいけない質問なんじゃないのか? フラ語で「ジュテーム(きみをあいしてる)」と言うけれど、 これは真剣な愛の告白の時のみの呪文で、形容する余計なものをつけてはならない。 ① Je t'aime. 私はきみを愛しています。 ② Je t'aime beaucoup. 私はきみをとても好きです。 一見「とても」をつけたほうが熱意が伝わりそうだけれど、 ①は恋愛対象 ②は友達でいましょう なぜかという理由を恩師K氏(フランス人)に聞いたところ、 「愛は本来無限であるべきものという観念がある。形容するものをつけると、愛に一定の限界を作ってしまうことになるから、自分の愛する気持ちも限定されてしまう。」 浮いた噂のなさそうなおっさんから、こういう熱い説明を聞くとちょっと胸がじぃんとしたものでした。 Je ferme la parenthèse.(「カッコを閉じます」大学の先生たちは「もとい」という意味でよくこう言う。) なんで彼はこんな質問をするのだろう。 他の「プロフェッショナル」と言われるひとは、こういうことを考えたりするのだろうか? 「なぜ人は自分をいいというのか?」は、逆に言えば、 「自分は人に何をいいと言わせるのか?」つまり、 「自分は人(お客さん)に、何を提供するのか?」 そうか、彼は、自分のアイデンティティを探していたんだ。 それは彼にしか見つけられない。他の人がそれに色をつけていくことはできる。けれど、色をつけるべきものがなければ、いくら絵の具をたくさん持っていてもどうしようもない。 だけど、それを一緒に探していくことはできるよなあ。 わたしはどうだろう?わたしは、わたしのやりたいことを通して一体何を人に提供するのだろうか・・・。 主語を自分に置き換えると、他人事も自分の事になる。 「なぜ」が問える時、相手も自分も一緒に深くなって行く。
Adieu
久しぶりに、会った。いつものように、わたしに色々と質問する。 いつものように、壁に背中をもたれて、 手を後ろにまわして。 相変わらず忙しそうだった。 「じゃあ」と、今日はわたしから言った。 一度も言えなかった、「じゃあ」。 いつも彼が切り出す「じゃあ」に、ずたずたに切り裂かれるような気がしていた。 「A la prochaine fois,(またね)」 ふと、思いも寄らない言葉がするりと出た。 「...ou plus jamais(...それか、もうこれが最後かもね)」 彼は、ちょっと目を丸くして、それからにやりとすると、 「じゃ、Adieu(アデュウ)だね」 と、言った。 「うん、Adieu(アデュウ)。」 そうか、アデュウという言葉は、「神の元へ」という言葉だったんだ、だから、もう二度と会わないときに言うんだと、初めて気がついた。 これからも、彼とは会うかもしれないけれど、 わたしの想いは、Adieuだった。 まるでわたしの意識を裏切って細胞から出たような言葉だった。 わたしの身体が、区切りを欲していたんだ。 これでいい。 これで、いい。
神仕掛けの機械
Deus ex machinaデウセクスマキナ。 Deus ex machina デウス エクス マキナ 神 ~による マシーン 直訳すると、「神仕掛けの機械」 またラテン語かとおっしゃらずに。 ラテン語を知らずとも、オデュッセー、イーリアスを読んだことがあれば出くわす言葉です。 (これをジャン・コクトーは「Machine infernale(マシーン・アンフェルナル)」と見事に言い表し戯曲にした。 邦題「地獄の機械」は、あまりいけてないと思う。確かにこのフランス語を訳すのは難しい。ドラえもんのひみつ道具的に言えば 「地獄作り出し機~!」というのが一番ふさわしいのだけれど、それではジャン様は許してくれまい。) デウセクスマキナとは、オリンポスの神々による人間の運命への介入という意味。神様たちは、自分たちの機嫌によって人間にそっぽを向いたり微笑んだり、あっけらかんと人間の生死を決定する。 冒頭からずっと引っ張り続ける「アキレウスの怒り」、ユリシーズの放浪、トロイの陥落、みんな元はといえば女神さま同士の究極の美人争いが原因。人間の倫理とか義理人情とか熱く語られるのだけれど、神様が「やっぱ、もうアイツの味方すんのやーめた」と言えば終了。 人生で、どう考えてもなんかよくわからん力がわたしの思考をストップさせ、どこかに導いているとしか思えないという時がある。そんな時、わたしはこの言葉を思い出す。 今年の大学の授業のオプション選択で「コミュニケーション科学」を選んだのは、わたしにとってはデウセクスマキナだった。 わたしのいるナント大学は3年間の教育プログラム中、2年からは三つの進路に分かれる。現代文学コース、演劇コース、コミュニケーション科学コース。わたしは現代文学コースなのだが、これが一番オプションが多彩で、本来よそのコース専門のものでも参加できる。 1年の最初の集会で、それぞれのコースの説明とオプションの先生の紹介があった。コミュニケーション科学担当の先生はもっさりしてめがねをかけ、いかにも「メディアコメンテーター(なんだそりゃ)」といった風体。話し方、授業の内容、外見を総合してわたしの中では「却下」だった。 ところが2年の初めの登録で、うっかり彼のオプションを取ってしまった。 どうしたことだ。 授業のテーマに唆されたかもしれない。 「Histoire de l'écriture et de la mise en page」 文字とレイアウトの歴史。 授業に行ってみたら大歓迎された。日本人だかららしい。 授業は3時間ぶっ通しなのだが、まさにマルチな造詣の深さを持ち、言葉の端々に遊びをちりばめ、わたしたち生徒を「mes petits amis(わが友)」と呼ぶコルメレ先生の授業は非常に為になる。 そうして、とても大事だなと思ったのは、教える「目的」があるということだ。彼の場合は「生徒が何かを掴む」ために情熱を持って教えている先生だと生徒に伝わってくる。 「教える」は教師というタイトルを持つ人全てに共通する最低限の活動になる。違いは、「教える」を修飾するものに現れる。 「なぜ」教えるのか。「なぜ」の部分にそれぞれの教師の根本的なところが現れる。大学の先生は、インテリなだけで「なぜ」の中に「生徒を導く」という教育には欠かせないキーワードを全く持たない先生がたくさんいる。そういう人にとって、生徒はただのナンバーになってしまう。 明日はフランスのお盆トゥッサン。菊をお供えし、家族で集まる祝日。すでに人の姿は稀で街はしん、としている。 コルメレ先生は、言う。 「明日はじいちゃんばあちゃん、先祖のことを考えなさい!」 ヘブライ語とギリシャ語の発達の違いについて説明しながら、言う。 「レクチャーとは筆者が閉じ込めた言葉を解き放つ行為である。」 いい先生に出会えた神様の介入は、Machine paradisiaque(天国作り出し機)だった。