LE POURQUOI

「なぜ」がないと、弱い。話をするにも、 話を聞くにも、 書くのも、 行動するのも、 理解をするためにも、 「なぜ」は必要。 ここのところ、ずっとひっかかっていたある人の言葉 : 「なぜ、僕のことがいいとみんなが言うのか、わからない。」 彼は、プロの「表現者」。 つまり「彼はいい」とか「彼はよくない」とか、常に、あからさまに人から評価されるシチュエーションにいる。 彼は決して自惚れの境地で調子をこいてこんなせりふを口にしたわけではない。本当にわからずに、心の底から絞り出た疑問のようだった。 初めはその言葉をどう捉えていいかわからなかった。 わたしが彼を「いい」と思えないわけではない。 なのに「これだ!」という答えがない。「好きな理由」というのが、何を言っても通り一遍の薄っぺらなものに聞こえて、言えば言うほど彼のことを貶めていくような、よくわからない悪循環に陥った。 何をどんな風に言ったって、彼は納得しないんだと気づく。でもまてよ、その前に、この質問はするべきものなのかな? 例えば、好きな人に大決心して、面と向かって告白したとします。 相手に「なんで?なんで僕(または私)なの?」と聞かれたら、 「いや、それはその、つまり・・・や、やさしいし・・・」 と、急に言葉がはっきりしなくなったりしないでしょうか。 すきすきすきすき!というピンク色のスパイラルを切り裂く青い「なんで?」。 これは、しちゃいけない質問で、答えちゃいけない質問なんじゃないのか?   フラ語で「ジュテーム(きみをあいしてる)」と言うけれど、 これは真剣な愛の告白の時のみの呪文で、形容する余計なものをつけてはならない。 ① Je t'aime.  私はきみを愛しています。  ② Je t'aime beaucoup.  私はきみをとても好きです。    一見「とても」をつけたほうが熱意が伝わりそうだけれど、 ①は恋愛対象 ②は友達でいましょう なぜかという理由を恩師K氏(フランス人)に聞いたところ、 「愛は本来無限であるべきものという観念がある。形容するものをつけると、愛に一定の限界を作ってしまうことになるから、自分の愛する気持ちも限定されてしまう。」 浮いた噂のなさそうなおっさんから、こういう熱い説明を聞くとちょっと胸がじぃんとしたものでした。 Je ferme la parenthèse.(「カッコを閉じます」大学の先生たちは「もとい」という意味でよくこう言う。) なんで彼はこんな質問をするのだろう。 他の「プロフェッショナル」と言われるひとは、こういうことを考えたりするのだろうか? 「なぜ人は自分をいいというのか?」は、逆に言えば、 「自分は人に何をいいと言わせるのか?」つまり、 「自分は人(お客さん)に、何を提供するのか?」 そうか、彼は、自分のアイデンティティを探していたんだ。 それは彼にしか見つけられない。他の人がそれに色をつけていくことはできる。けれど、色をつけるべきものがなければ、いくら絵の具をたくさん持っていてもどうしようもない。 だけど、それを一緒に探していくことはできるよなあ。 わたしはどうだろう?わたしは、わたしのやりたいことを通して一体何を人に提供するのだろうか・・・。 主語を自分に置き換えると、他人事も自分の事になる。 「なぜ」が問える時、相手も自分も一緒に深くなって行く。

Adieu

久しぶりに、会った。いつものように、わたしに色々と質問する。 いつものように、壁に背中をもたれて、 手を後ろにまわして。 相変わらず忙しそうだった。 「じゃあ」と、今日はわたしから言った。 一度も言えなかった、「じゃあ」。 いつも彼が切り出す「じゃあ」に、ずたずたに切り裂かれるような気がしていた。 「A la prochaine fois,(またね)」 ふと、思いも寄らない言葉がするりと出た。 「...ou plus jamais(...それか、もうこれが最後かもね)」 彼は、ちょっと目を丸くして、それからにやりとすると、 「じゃ、Adieu(アデュウ)だね」 と、言った。 「うん、Adieu(アデュウ)。」 そうか、アデュウという言葉は、「神の元へ」という言葉だったんだ、だから、もう二度と会わないときに言うんだと、初めて気がついた。 これからも、彼とは会うかもしれないけれど、 わたしの想いは、Adieuだった。 まるでわたしの意識を裏切って細胞から出たような言葉だった。 わたしの身体が、区切りを欲していたんだ。 これでいい。 これで、いい。

神仕掛けの機械

Deus ex machinaデウセクスマキナ。 Deus   ex    machina デウス  エクス  マキナ 神   ~による  マシーン 直訳すると、「神仕掛けの機械」 またラテン語かとおっしゃらずに。 ラテン語を知らずとも、オデュッセー、イーリアスを読んだことがあれば出くわす言葉です。 (これをジャン・コクトーは「Machine infernale(マシーン・アンフェルナル)」と見事に言い表し戯曲にした。 邦題「地獄の機械」は、あまりいけてないと思う。確かにこのフランス語を訳すのは難しい。ドラえもんのひみつ道具的に言えば 「地獄作り出し機~!」というのが一番ふさわしいのだけれど、それではジャン様は許してくれまい。) デウセクスマキナとは、オリンポスの神々による人間の運命への介入という意味。神様たちは、自分たちの機嫌によって人間にそっぽを向いたり微笑んだり、あっけらかんと人間の生死を決定する。 冒頭からずっと引っ張り続ける「アキレウスの怒り」、ユリシーズの放浪、トロイの陥落、みんな元はといえば女神さま同士の究極の美人争いが原因。人間の倫理とか義理人情とか熱く語られるのだけれど、神様が「やっぱ、もうアイツの味方すんのやーめた」と言えば終了。 人生で、どう考えてもなんかよくわからん力がわたしの思考をストップさせ、どこかに導いているとしか思えないという時がある。そんな時、わたしはこの言葉を思い出す。   今年の大学の授業のオプション選択で「コミュニケーション科学」を選んだのは、わたしにとってはデウセクスマキナだった。 わたしのいるナント大学は3年間の教育プログラム中、2年からは三つの進路に分かれる。現代文学コース、演劇コース、コミュニケーション科学コース。わたしは現代文学コースなのだが、これが一番オプションが多彩で、本来よそのコース専門のものでも参加できる。 1年の最初の集会で、それぞれのコースの説明とオプションの先生の紹介があった。コミュニケーション科学担当の先生はもっさりしてめがねをかけ、いかにも「メディアコメンテーター(なんだそりゃ)」といった風体。話し方、授業の内容、外見を総合してわたしの中では「却下」だった。 ところが2年の初めの登録で、うっかり彼のオプションを取ってしまった。 どうしたことだ。 授業のテーマに唆されたかもしれない。 「Histoire de l'écriture et de la mise en page」 文字とレイアウトの歴史。 授業に行ってみたら大歓迎された。日本人だかららしい。 授業は3時間ぶっ通しなのだが、まさにマルチな造詣の深さを持ち、言葉の端々に遊びをちりばめ、わたしたち生徒を「mes petits amis(わが友)」と呼ぶコルメレ先生の授業は非常に為になる。 そうして、とても大事だなと思ったのは、教える「目的」があるということだ。彼の場合は「生徒が何かを掴む」ために情熱を持って教えている先生だと生徒に伝わってくる。 「教える」は教師というタイトルを持つ人全てに共通する最低限の活動になる。違いは、「教える」を修飾するものに現れる。 「なぜ」教えるのか。「なぜ」の部分にそれぞれの教師の根本的なところが現れる。大学の先生は、インテリなだけで「なぜ」の中に「生徒を導く」という教育には欠かせないキーワードを全く持たない先生がたくさんいる。そういう人にとって、生徒はただのナンバーになってしまう。 明日はフランスのお盆トゥッサン。菊をお供えし、家族で集まる祝日。すでに人の姿は稀で街はしん、としている。 コルメレ先生は、言う。 「明日はじいちゃんばあちゃん、先祖のことを考えなさい!」 ヘブライ語とギリシャ語の発達の違いについて説明しながら、言う。 「レクチャーとは筆者が閉じ込めた言葉を解き放つ行為である。」 いい先生に出会えた神様の介入は、Machine paradisiaque(天国作り出し機)だった。