屍鬼二十五話―インド伝奇集

ソーマデーヴァ

平凡社

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(1978-01)

「フラ語脳になると、不安思考が減る?」という話をしようと思ったのですが、ちょっと一休み(してばかりでごめんなさい)。 今週の月曜日は英語のエクスポゼ、昨日は比較文学のミニテスト。ヴェーターラ・パンチャヴィンシャティカー(屍鬼二十五話)についてです。 この話は、設定がぶっとんでいて、単純に楽しむことができます。 (フラ語でしか読んだことがないので、日本語訳が面白いかどうかはわかりません。日本に帰ったらぜひ読んでみようと思っています)

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インテリジェンスと勇気・行動力にバランスよく長けたトリヴィクラマスナ王の元に、物乞いが毎日フルーツをささげにやってきます。

王は黙ってそのフルーツを貰い、家臣に渡す毎日なのですが、ある日、飼っているサルに捧げ物のフルーツを与えたところ、フルーツの中から宝石が出てきました。家臣に問いただしてみると、確かに、今まで物乞いが持ってきたフルーツは腐ってしまって食べられなくなっているものの、一つ一つの中から宝石が・・・

王は、次の日に物乞いがやってきたときに、なぜこのようなことを自分にするのかを聞きます。物乞いは実は修行者で、受肉(神の子が人間の肉体に宿り生まれること)を実現させるために「強いこころを持つもの」の援助が必要だと説明します。そのためには、夜ふけてから、王は物乞いの待つ墓地に行き、木にぶら下がっている死体を彼のところまで運んでこなくてはなりません。

勇気ある王は木のところまで行き、死体を下ろすのですが、死体を担いだとたんその死体に取り付いていたヴァンパイアが現れます。

「お前さん、この夜中に死体をこんな風に担いで歩いていくなんてご苦労だね。道々退屈しないようにひとつ面白い話をしてあげようか・・・」

こうして、ヴァンパイアは全部で24の話をするのですが、各話の最後には必ず王のとんちを試す問答が行われます。これに答えられないとヴァンパイアは王を殺してしまうと脅すのですが、頭のいい王は難問に答えることができます。

しかし、正解するとヴァンパイアは魔法の力で死体もろとも消えてしまい、王はまたもや死体を捜しに木のところまで戻らなければならないのです。

モラルを含めた筋から説教っぽいオチになるのとは違い、 かなりなんでもありの人間関係(浮気・不倫は常套、レズ関係なんかもあり)、シヴァ神をはじめとした伝説の神々がぞくぞくでてくるし、スパイスの効いた結末、トリヴィクラマスナ王の見事な返答、さらには25番目のエピローグに驚きの結末が隠されているという、大人も子供も楽しめる筋になっています。

kāvya(カーヴィア)と呼ばれる美文体で書かれているので、自然や天体などを隠喩に使ったり、言葉遊びをふんだんに取り入れて語られ、エロティックなシーンが壮大なイメージになったりしてどきどきします。例えば、ある王様が隠者の娘を見初めて、彼女を連れて王国に帰る途中、夜になってしまったので野宿をするのですが、夜の闇の中で突如現れる美しい月が「大洋を胸元に引き寄せ、口づけをした」と語られます。 サンスクリットでは月は男性名詞、大洋は女性なのです。

この25の話は、仏教の哲学が根底に流れているので、一つ一つの話に隠された人間の業やそれに伴う因果、真の王とは何なのかという問いかけ、諸行無常、諸法無我、一切皆苦が自然に示され、この話を読むことで「ダルマ(法、真理)」を得、人々が解脱をする助けになるように、という願いがこめられています。

私自身は無宗教ですが、育ってきた環境や、個人的な価値観から、私にとっては仏教の教えはより親しみやすいと感じます。これは自然なことだし、だからといってキリスト教を否定するという意味ではありません。 キリストもお釈迦様もそのほかの聖人と呼ばれる人たちも、みんな同じことを言っているのだと気づいている人はこの世の中にたくさんいると思いますが、その表現の仕方・言葉の捉え方が誤解を生み、こうして「宗教」というものが形成されている世界があるのかもしれません。

このヴァンパイア物語を読んで、ああ、仏教をちらりとでも理解することができる土地で育ててもらってよかったなぁーと思いました。 ちなみに、この元祖ヴァンパイアは「とり付く者」という意味があるそうで、西洋のヴァンパイアとは全く種類がちがうようです。

しかもこの人(?)、実はいいやつだったりして・・・おっと、これ以上言ってしまうとネタバレしてしまう。 今も昔も、究極のところ、見かけでしか判断していないと、底に眠る「宝物」に気づくことができないのですね。

ところで、太極拳は中国文学がきっかけで始めましたが、今回はこのサンスクリットを調べているときに、肩こりを直すのにヨガをちょっぴりかじってみて、すっかりはまってしまいました。あちこち筋肉痛ですが身体は快調です。

セレブなpeople

2時間のラテン語のテストの後、活用が頭の中をぐるぐる駆け回る。

それにしても、こんなに覚えなくちゃいけないシステムがたくさんあって、 しかも「例外」だらけという言葉を使っていた人たちのことを考えると、 いつも、彼らは果たして頭が良かったのか、それともとんでもなくあほの集団だからすっきりシンプルな形を造り得なかったのか、 どちらだったのかなぁと気になる。

ラテン語からフラ語への移行期の文章なんてもう 収拾付かず、それぞれが「これが俺様流」と主張し合い、 表記と発音の折り合いが付かずに、わけのわからない振り仮名のようなものまで現れていた。

ラブレの原語版(?)なんて

「あのーこれは何語で書かれているんですか」

と思わず言いそうになる。

パリの人々は、田舎もんとの格差を測ろうとへんな語尾の発音を開発して、フランス語は余計に混乱を極める。

「oi(オワ)」という音とか、半過去の語尾の特徴/e/(エ)という発音を「オエ」とか「ウエ」/we/とか不気味に発音して悦に入っていたらしい。

サルコジ流に言うと、「discrimination "inutile"」。

パリジャンは今も昔もやる事が幼稚。 パリジャンに関わらず、自称「最先端」から発信される言葉って、「恥ずかしくないのか、それ?」というものが多いです。「セレブ」など。ちなみにフランスでこのセレブを表現したいなら「ピープル(people)」と言ってみよう。丁度同程度の発想です。

えーと、なんでラテン語の話していたのに、セレブの話になっちゃったんだろう。 後は明後日の英語で一応試験は終わったことになりますが、 追試、何個食らうことやら・・・去年の11個よりは少なければいいんだけどなぁ。 それにしても、なんだってこんな酔狂なことを始める気になったのやら。 よくやるよ、私も。

ラテンなピープルと対等に馬鹿を競える自信あり。

詩歌

Vu le soin ménager dont travaillé je suis,

Vu l'importun souci qui sans fin me tourmente,

Et vu tant de regrets desquels je me lamente,

Tu t'ébahis souvent comment chanter je puis.

Je ne chante, Magny, je pleure mes ennuis,

Ou, pour le dire mieux, en pleurant je les chante,

Si bien qu'en les chantant, souvent je les enchante :

Voilà pourquoi, Magny, je chante jours et nuits.

Ainsi chante l'ouvrier en faisant son ouvrage,

Ainsi le laboureur faisant son labourage,

Ainsi le pèlerin regrettant sa maison,

Ainsi l'aventurier en sangeant à sa dame,

Ainsi le marinier en tirant à la rame,

Ainsi le prisonnier maudissant sa prison.

Les Regrets,sonnet 12, Joachim Du Bellay

我が労する雑務を見、

我の限りなき煩瑣を見、

我が止め処なき憂いを見、

君驚くは我如何にして詠い得るかと。

我は詠わず、マニィよ、我は泣くなり我が憂愁を、

より明らかに言うならば、我泣きながら憂を詠う、

我然と詠うなら、憂いは詞花と咲き誇る、

然れば、マニィ、我はひねもす詠うなり。

我は詠う、職人の匠がまにまに歌うごとく、

農夫の下ろす一鋤の合間にもらす声のごとく、

はるか我が家を口ずさむ行人の落す涙のごとく、

追憶の麗しき人を浮かべてはため息止まぬ情人のごとく、

波間に歌う船頭の押しては曳ける櫂のごとく、

虜の男が牢の内己が不運を呪うごとく。

「哀愁」ジョアキム・ドゥベレ ソネット12より 仏語邦訳まり

 

ドゥベレはルネッサンス期の詩人ですが、 今読んでも決して古臭くない。

親戚に当たるジャン・ドゥベレに同行してイタリアで約4年を暮らす中で、 ジョアキム・ドゥベレはフランスを懐かしんで止まない。

なぜ自分は外国に虜にならなければならないのか、 仕事はつらく、フランスにいる友、 マニィやロンサールなどの仲間たちが恋しく、 庇護者であるマルゲリット・ド・フランス(アンリII世の妹)は遠く、 彼は常に義務と郷愁で揺れている。

そうして、ああ、哀しいよと言う声が、詩を作り出す。

職人さんが口ずさみながら仕事を仕上げるように、 お百姓さんが土を耕すように、 船頭さんが波しぶきの中、舟歌を歌うように、 そして牢内の男が囚われの身を嘆くように、 「詠っているのではない、泣いているんだ」という彼の悲しそうな笑いは、なんだか透き通って見える。

時代はめぐり、インターネットに電話にと情報には不自由しない現在にあっても、彼の哀しみの歌は読み手の心に一陣の風を起こす。 感情が、感情の揺らぎを超えて発された時、それはもう感情ではなく 芸術になる。

グロテスク趣味

2日前から比較文学「中国におけるカフカ」の小論文にかかっている。

カフカの「変身」「審判」「父への手紙」と 残雪(Can Xue ツァンシュエ)の「Dialogue en paradis(天国での対話・邦訳されているらしいです)」 の比較なんですが、小論文のテーマは残雪の作品の翻訳者が述べていた作者の描く「家族」について。

これが、またえらいややこしくて(この人の残雪作品の訳文もややこしい)、参りました。

フランスの大学で出題される小論文というのは、一般的日本的教育を受けてきた私にとっては、その構造を理解しようとするだけで魂が抜けそうになるのですが、与えられる問題というのがまた2ねじり半くらいのヒネクレっぷりなことが多いのです。

そんな風に、「ちょっと頭をねじらないとわからない」という盲点を突く文章を理解し、 「ちょっと頭をねじって書かないと丸め込めない」という文章を要求され、 なのに、フォーマットはあほみたいに融通が利かない。(※万が一、この「あほみたいなルール」を知りたいという好奇心の旺盛な方はずずぃっと下の方まで。

この、囲いの中で「自由に羽ばたけ!」と言われているかのような文章修行をここ1年半ほどやってきて、やっと自分の考えがなんとなくフラ文のトリカゴの中で落ち着いて、むやみに暴走して駕篭をぶち破ったり、はみでたりすることが少なくなってきて、ちょっと、つまんなかったり。 どうせなら、わたしの小論文も作者たちに敬意を表して思いっきりグロテスクなものにしたいところです。もう、読んでいるだけで「うえぇ」となって、先生も採点どころじゃなくなるような。それで減点されちゃったりして・・・。

グロテスクって確かに黒い笑いを含みますが、その配分によっては笑えなかったりします。その辺、カフカはやっぱり天才的。

今回の出題文の中に、ジェローム・ボッシュという15世紀の画家が出てくるのですが、それはもうおどろおどろしい絵(クリックすると、代表作「最後の審判」が開きます。うえぇ・・・となりたい方はどうぞ。)をお描きになっていたようで、 そのグロい絵を眺めては難解な出題文を何とか解きほぐそうとしていたら、だんだん私の夢までなぞの生き物が出てくるようになって来ました。 このまま行ったら残雪のような小説が書けるかもしれないです。

残雪のカフカ論の邦訳が出たそうなので、そのうち読んでみたい。 同時に、やはり現代中国人作家の余華(ユーファ)という人の「世事は煙の如し」という作品の抜粋についての分析も提出しなくちゃならないんで準備をしているのですが、これまたグロテスクつながりで、ちょっと不思議な連続死の話。水が「死」を象徴するエレメントとしていろんな場面で出てくるのですが、色々考えていたら、変な津波の夢を見てしまった・・・。 わたしはすぐ影響を受けるバカが付く素直さんですが、夢にもすぐ影響がでるのが笑えます。

 

※石頭な小論文のルール

大抵、出題される問題は、テーマになっている作品に関する誰かの批評の抜粋になります。要は、ヒネクレ文には必ず一発では理解できないような内容が組み込まれているので、その曖昧さを指摘して、自分なりの解釈を使って読み手を丸め込む、口八丁の訓練です。

一、イントロでは必ず出題文を「丸ごと一字も変えずに」書き入れるべし。

一、展開は必ず3つの章に分け、イントロ部分でその3章の展開内容を予め述べるべし。

一、第一章では争点についての論証①を展開するべし。

一、第二章では、争点についての論証①に反駁でき得る論証②を展開するべし。

一、第三章では、争点についての論証①と②とは別の観点での出題文に関するアプローチを試みるべし。

一、全ての論証には的確な例を挙げるべし。

一、結論では、3つの展開を5,6行の文章で要約すべし。また、ここで新たな例を挙げるべからず。

一、結論では、主題になっている作品・作者に関連する参考作品(同作者・または別の作者・同分野・または他分野)を挙げるべし。

以上。

このルールから一歩でもはみ出すと、たちまち減点を喰らいます。 こういうことを小さいときから訓練されているフランス人に、万一、口で勝てたとしたら、相当有能な弁護士にでもなれる素質があるとかもしれない。

ちなみに、フランス人の自称「恥ずかしがりや」=「思っていることをはっきり表現できない口下手」とはならない。