A la nuit de la résurrection, je pense à mon ami.*

Tu ne me vois jamais, Pierre, que tu ne die

Que j'étudie trop, que je fasse l'amour,

Et que d'avoir toujours ces livres à l'entour

Rend les yeux éblouis et la tête alourdie.

Mais tu ne l'entends pas : car cette maladie

Ne me vient du trop lire ou du trop long séjour,

Ains de voir le bureau, qui se tient chacun jour :

C'est, Pierre mon ami, le livre où j'étudie.

Ne m'en parle donc plus, autant que tu as cher

De me donner plaisir et de ne me fâcher :

Mais bien en cependant que d'une main habile

Tu me laves la barbe et me tonds les cheveux,

Pour me désennuyer, conte-moi, si tu veux,

Des nouvelles du pape et du bruit de la ville.   

Sonnet LIX Les Regrets de Joachim Du Bellay

そんなにわたしを見ていないだろうに、ピエール、お前が言えるほど

わたしが過労で、恋に身を焦がしているなんて、

常にこんなに本に囲まれているから

両の目がぐるぐるして頭が重いのだろうなんて。

ああお前はわかっていないよ。だってこの病は

本の読みすぎからでも長すぎる滞在のせいでもなく

仕事場があるからなのだから、昨日も今日も明日にも。

これが、わが友ピエール、わたしが身を削っている「本」なのさ。

だからもうその話題はよそう、お前がいみじくも

わたしに心地よさを提供し、不快にさせぬというのなら。

けれども、いいかい、その慣れた手つきで

わたしの髭を洗い髪を刈る間、 退屈せぬように、話しておくれ、よかったら、

法王についてのニュースと世の喧騒を。    

ジョアキム・ドゥ ベレ 「後悔」よりソネット59

* Le titre "A la nuit de la résurrection, je pense à mon ami" appartient à diurnalem. 日本語訳、タイトルの「復活の夜に友を思う」はdiurnalemのオリジナルです。

デット・オア・アライヴ

姉さん、事件です!

わたしが飛行機の切符奪取のために打ち立てた背水の陣は11日の学部のAGで排水に流されたはずだったわけで。ここに来てまたもや状況は流転なわけで―

今日学長が出した明日の緊急投票: 質問です。あなたはブロキュス続行に賛成ですか?

Yesの場合。 あなたの選択は正しい。 なので、ごほうびに4月18日から21日までと、5月9日から6月3日までの補習授業を与えます。 試験は6月6日から16日まで。 一学期の追試は6月19日から23日まで。 2学期の追試は8月28日から9月5日まで。

Noの場合。 あなたの選択は間違っています。 罰として、ディプロムをあげません。

 

をわ!!!

 

これって投票じゃないじゃん、脅しじゃんか。

「Yes or Yes」の投票、しかも11日の時点で学部で決定されて発表されたことが丸ごと覆されている。

どう考えても、学長の一存で決めたことのようにしか思えない。 ちょっと、この横暴な決定は温厚な黄色人種でも怒りをおぼえるぞ。 巻き込まれた人間のことを何も考えてないじゃんか! (ていうか、わたしは9月5日まで日本なんだぞ!)

それよりも、最終的な成績が出る前から1学期の追試が始まるって、どういうこと?

しかも、2学期の成績が9月にはっきりするってどういうこと?

明日の投票、すでに学生たちはぶち壊しを呼びかけているわけで、 もうどうなるかさっぱりわからないわけで。 学長の一存で「証書は出さない」って、合法なわけ?

とりとめないひびのまにまに

16時の締め切り前になんとか落語サイトを立ち上げ(というかデザインを終了し)、大学に提出に行った。

ていうか、インターネットサイトのデザインをしてそれをなんでDVDに入れて、てくてく大学まで持参するのか、いまいち腑に落ちない。

デジタルなようでいてそこはかとなくアナログ。やはりフランス。

大学はブロキュスのせいでドアがあちこち閉まったままなので、入れるドアを探すのに雨の中うろうろする羽目になった。おかげさま(?)で3日間授業もなく、2週間で10ページのサイト作りに打ち込むことができました。

 ところで、おとといTertreの入り口でデモ学生たちがビラを配ってたむろしているところを通ろうとしたら、 ナンパされました。

驚きの便乗精神。プロフィテ君万歳。

「心理学学科ってどこにあるか知ってる?」という出だしだったです。それもどうかと思う

。他に彼に声をかけられた人いないだろうか? 多分誰も引っかからないと思うけど、そんなあほな第一声に。 あ、もし引っかかった人がいたら、ごめんなさい。

やっと、1学期の成績が出た。

んが(鼻濁音)。

大学では全員の成績が容赦なく張り出されるので、みんなはそれを他の人に見られないように自分の部分だけ破りとって行く。 わたしの前の人か後の人が、わたしの部分を破りとって行ったらしく、虫食い状態の成績表の中に、わたしの名前がない。 マナー違反!ぷんぷん。

幸い事務所が開いていて、おねえさんが「今回は特別だからね」と言って、わたしの成績を印刷して出してくれた。 6科目(全体で11科目あるけれど、6ユニットに分かれている)中、4科目クリアで、現在なんとか追試を間逃れ状態です。瀕死だけど。

いやーすごいよ。我ながら。すごいしょぼい喜びなんだけど、でも受かってるってうれしい。

だって去年は一学期15科目中2個しか受かってなかったんだものさ。 昨年は6月に11科目追試を受けて、猛烈な反撃で奇跡の進級(それもすごいと言えばすごいかもしれない)だったしなあ。

20点満中10点以上平均で取れるっていう、なんというか、人並みの喜び。 スランプも超えて見るもんだ。

現在のスローガン「追試ゼロ運動」は、引き続き5月の試験まで続けていきます。

警察の垂れ幕みたいですが、今年はぜひ6月末または7月頭に帰国しなければならないのだ! ところで、春、みたいです。 くしゃみが止まりません。 お花見、もう4年もしていない。 桜の下でくぃっと一杯やりたいです。

新機能

お昼休憩中。

アトリエInfo.Comの仲間たち(ほとんどがサイトを立ち上げ切れていない)は、みんな目の下に隈が。がんばろう。みんな、寝たらいかんぞ!

朝8時から言語学。来週提出の課題に昨日から取り掛かっているが、文章を読むというより、文章を感じ取ってそれをカテゴリー分けするような作業で、なんだか自分の中に新しい器官ができている不思議な気分になる。

モンド・コンクレ(具象的世界)とモンド・アブストレ(抽象的世界)の臨界点に立っているような感じです。 すごい抽象的な表現ですみません。

多分、カフカ「変身」のグレゴールが変身後初めて後ずさりができるようになるような感覚なのかも。 更に抽象的な例を出してすみません。

フランス人の友達と話していて自分のジョークに爆笑されたりすると、 日本語のときより2割方うれしさが増すような気がします。 これって、オヤジギャグが受けたときのオヤジさんたちの喜びに近いのだとしたら (つまりそれくらい受ける頻度が稀ということ) ちょっとオヤジギャグを連発する人にやさしくなれるかもしれない。

かもしれない。

マルグレ・モワ

差別はしない、と格好のいいことを言っておきながら、次の日思いっきりフランス人は・・・!と嫌なことを書いてしまいました。(その回は封印。)

反省。

 

 

 

 

 

 

(空白行分だけ)

今更言い訳にしか聞こえませんが、段取り上手なフランス人の皆さんは存在します。私の友達たちはみんな段取りが上手い。わたしが一番下手かもしれん・・・。なにしろ、実の親に「尻に火がつかない」と言い渡されましたので。

燃えない臀部を抱えて今まで何とかなってきてしまったから(泣きながらも)、相変わらず段取りの学習をしないんだろうなー。

「サイトを立ち上げよう!」がテーマの4日間のIT合宿は昨日終了したものの、立ち上げられた生徒など一人もおらず、来週の金曜日までに提出となる。 朝9時から午後5時まで、帰ってからも夜中までパソコンに向かいっぱなしでもう目がシパシパ。 疲れて余裕がなくて、与太郎(脳みそ)はもう考えるのを放棄してるし、 久々に頭やかん状態(ショート)。

余裕がないと口が悪くなっちゃうなあ。

Une fourchette qui m'a languéってことで許して欲しい。(この表現が今私の中では旬)

しかも、毎日フラ語で落語と向き合って(私の立ち上げるサイトは落語がテーマです)、中世のロワ・アルチュールもルネッサンスのドゥベレも、中国文学も遠ーくはるかかなたに。 ヴァカンスあと2日しか残されていないって、ひどい・・・。

ツ・ブーム

今日は古フランス語(ancien français)の小テスト。

古フラ語は現代フラ語とぜんぜん活用が違う。 ラテン語とも微妙に違う。

ラテン語よりは適当でいい加減なんつ。 その辺がフランスの特色をよく反映してるんつ。

で、すっかり「語尾ツ」ブーム。 古フラ語で語尾がtの単語に複数形のsを組み合わせるとz(「ツ」という発音)になる。基本的に現代フラ語では発音しない語尾の子音も発音する。 vent (風ヴァン) は 「vant ヴァン」、複数形は「vanz ヴァンツ」 いちいち語尾のsとかzとかを発音していると妙に耳に残ってしまう。それでついつい普通のフラ語を読んでも語尾まで発音して田舎くさくして遊んでいたら、最近とうとう日本語にまで影響がでてるんつ。 誰にもわかってもらえない超マイナー方言(?)ブームなんつ。

ちなみに「語尾ス」ヴァージョンもありんす。でもこれ、ちょっと花魁っぽくなったり、意外に日本語にマッチしてあんまりおもしろくないんす。 最近、どうも、何を見ても笑えてくる。しゃんぴにおんの中にワライダケが混じっていたんだろうか。 過去の爆笑ネタも、急にふと浮かんできて一人で笑ってしまう。 そういうお年頃なのかなー。

こうやってへらへらしているので、ラテン語とか古フラ語ってそんなに楽しいのかなとたまに勘違いされるのですが、 わたしとしては、禅の苦行みたいなもんなんじゃないかと思ってるんつ。 (お坊様の修行と比べてはいかんのかもしれないが・・・)

フランス語を始めたときに、誰もがげんなりさせられる女性名詞・男性名詞ですが、ラテン語や古フラ語を前にすると、たった2つしかカテゴリーがないことがありがたくさえ感じてしまいます。しかも、単数複数の変化はsとかxとかを付ければいいのでややこしいことはそうないし。

古フラ語は名詞の語尾が4つの形に変化します。名詞の種類も男性・女性ともちろんありますが、それぞれの語尾変化のパターンがさらに3種類ずつあります。 あー、書いている本人もわけが分からなくなる。

上のvant(男性名詞)なら次の語尾変化をします。

CSS li vanz

CRS le vant

CSP li vant

CRS les vanz

CS (Cas Sujet 主格) は主に主語や呼びかけなどの位置におかれる場合の形。 CR(Cas Régime 対格)はそれ以外の補語として使われる場合の形。 それぞれ単数形(Singulier)と複数形(Pluriel)があります。 liとかlesとかは冠詞です。

つまり語尾変化の形と、冠詞(省略されることも多々あり)を見て、その名詞が主語として使われているのか、それ以外なのかということや、単数複数を見分けるということになります。 こういった語尾変化の種類が男性名詞に3タイプ、女性名詞に3タイプある。

この古フラ語も、ラテン語から見れば全然楽。 ラテン語は男性・女性のほかに中性名詞があります。 それぞれの名詞は5つのCas(格)と単数複数にしたがって語尾変化をします。 その語尾変化の種類も5パターンあります。 人の名前だって、神様の名前だって語尾変化。 たとえばシーザー(Caesar)は

Caesar, Caesar, Caesarem, Caesaris, Caesari, Caesare ...(複数形は省略)

もちろん動詞も活用します。活用の変化は5つのタイプがあります。 ひとつの活用タイプの中には 能動態  現在形・半過去・未来・過去・大過去・近接未来・不定・現在分詞・過去分詞・未来分詞  受動態 現在形・半過去・未来・過去・大過去・近接未来・不定・現在分詞・過去分詞・未来分詞 と、ずらずら時制の種類があります。 もちろんそれぞれの形態につき、6称(Je, tu, il, nous, vous, ils)に活用をします。

こんな風に、単語の活用や語尾変化でその働きを知ることができるので、ラテン語文は単語のポジショニングが非常に自由。活用さえ覚えていればどこに何の単語を置こうとほとんど関係ないわけだから、左から順番に主語・動詞・補語と書かれている場合はほとんどなし。

形容詞も現在のところ3パターンの語尾変化を習いました。 そのほか、代名形容詞などというのもあれば、代名詞の語尾変化もあったりして、もう笑うしかないんす。

これだけ厳しいルールをがっちり決め込んでしゃべっていたということは、発する言葉と発信者の内面がかなりぴったりと一致してたんじゃないかなという気がします。 フランス語というのは、本当に言葉を「表現」として扱う。だから単語が山ほどあって本当に微妙な心の動きを「言葉」という音を使ってぎりぎりの所まで表現しようとしている言語だなぁと思う。普通に話していても、使う言葉を「いや、今のはそれよりもむしろこの言葉を持ってくるべき」みたいなことをよく言われる。

語学を始めてから、わたしの「与太郎」こと脳みそは、わたしがもっとも苦手とする「覚える」ということばかりを徹底的にやっている。意識的な記憶の訓練というのかな。たまに彼は「虐待だー」と泣いたりしている。 最初はどうやって単語を覚えたらいいのか分からなかったし、何度やっても忘れて、辞書を引くたびに一度探した印がついているとうんざりしたものでした。 ある程度記憶の貯金ができると、どうしてこの単語はこんな形になったのかというのが辞書に並んでいる前後の単語からなんとなく分かったり、ラテン語からの進化が元になっていることが分かったりすると一発で記憶に塗りこめられたりする。

世の中には「教科書は一回読めば覚えちゃうから、特に勉強せずに試験で高得点」といううらやましい人がたくさんいる。 一度でいいから、言ってみたいセリフだよなー。 ちょっと、申し訳なさそうな感じで言うんだよなぁ。

4年目のあっちょんぶりけ

"Le Japon n'est pas la Chine?"「日本って中国(の一部)じゃないんですか?」

 

「中国日本省」って思っている輩がフランスにはまだまだいるとは聞いていたが、現役大学生の口から聞くとは思わなかった・・・。 比較文学カフカ「変身」と中国小説の授業中、フランス上陸四年目にしてとうとう聞いてしまった、このセリフ。 教育って。

ドジでノロマなカメです。

もーえーつーきーたー・・・締め切りを破って早2週間。新学期が始まった一週間のうち3日完徹。(友達には「何をそんなに疲れてるわけ?」と不思議がられた) ついにレポート完成。「Influence de l'alphabet sur la langue et sur la culture japonaises(日本の言語と文化におけるアルファベットの影響)」全29ページなり。 3日間くらいまともにご飯を食べなかったら体重2キロ減。 慣れていたつもりのWordにこんなに手こずらされるとは、不覚です。何度 「このtétu!!(テテュ、頑固者)」とパソコンに向かって罵倒したか分からない。 確かにレイアウトとかやったことなかったし、こんなに図表をたくさん入れるものを作ったことはなかったしなぁ。日本語でもこんなにたくさんの枚数書いたことなかったし。 しかも、フラ語のスペルチェックに1日、文章構成のチェックに2日はかかっているし。これだけやっても、きっとおばかなミスがあるんだろうなー・・・ハァ。 我がとろいとろけた脳みそを「与太郎」と名づけました。(与太郎は落語の世界ではある意味主役と言ってもいい、気は良いけれど非常識が服を着て歩いているようなのんびり天然キャラ。) 新学期が始まって愕然としたのは、今学期から「古フランス語」の授業があるということ。もうすでにラテン語と英語でいっぱいいっぱいなんすけど・・・。それ以前に、フラ語さえ思うように行かない、いや、日本語さえわけが分からないのに。 「頭よくなりたい。今すぐ!」と日本の友達に訴えたら、 「青魚を食べろ」 と、返事が来ました。 鯖買いにいくか、サヴァ!

Xの悲劇

X-barre

好きなもののひとつが、この科目。 このシェーマを見ただけだと「うげーー!!」と言われそうなのですが、意外にパズルのようではまるのです。フラ語脳がしゃっきりする。フラ語が正しく使えてないところとか、普段あいまいにしたまま誤魔化しながら使っているところがはっきりする。 これはナント大文学部の2年で習う言語学の授業の1つ、「Morpho-syntaxe」の中の「Théorie X-barre」というやつ。エックスバー理論と言うんだろうか。日本の大学を出てないので日本の仏文専攻の人たちがこういうことをやるのかどうかさえもわからないんですが。 この言語学系の授業は必須で、一年の一学期で大まかなフランス語文法のおさらいをし、同時に言語学の一番ベースになるフラ語の歴史(派生とか人間の脳の進化についてとか)と言語の分類などを習い、2学期には主にラテン語からフラ語への発音の進化を学習します。 2年目に「形態論」というやつを始めます。 文法に出てくる専門用語って、フラ語だとすごいわかりやすいのに日本語になるとやたら圧迫感を感じる言葉になるのが不思議です。 フラ語だと「Morphologie(モーフォロジー、英語だとMorphology)」って、響きもなんとなく和めるんですが「形態論」とか言われると圧迫を通り越して軽い恐怖を感じるのは私だけ? 何をするのかというと、最終的にフラ語の文章を上の図のように分解して、何がどこにどうつながっているのか、というのを単語単位で説明するもの。法則が色々あるので、それを知っていれば知識のない言語でも上のようなシェーマを組み立てることが出来る。昨日の試験ではナイジェリア語が出題されました。 授業ではフラ語とまったく逆の図式ができる日本語も時々例に出されていたけれど、日本語の文章はフラ語よりややこしい式になる気がします。 この言語学を始めて、自分の日本語に前より少し敏感になった。「テニヲハがおかしい」かもしれないなんてこと、以前は考えもしなかったけれど、実際に文法上正しくない日本語を書いていることが多い。 文章を書くということは、言語を使った立体画像を描くようなものなんじゃないかと、バイリンガルになってから思うようになった。 ボタンを押すとブィン、と3D画像が現れてそれがしゃべったり動いたりする。昔から未来が舞台のスパイ映画とかロボットアニメとかでおなじみのシーン。あんな感じ。 言葉一つ一つが立体画像を作り出すボタンのようなもので、読んでいくにつれてボタンが押されて画像が浮かび上がる。書き手の内部が読み手の内部に再現される。 イメージやアイデアは、クンデラが言っているようにむしろリキッド状に近い。もやもやとしていて、まだ形態をもっていない。それを言葉で表すというのは一種の化学変化を起こすみたいなものだ。 「もやもや」に一番相応しい言葉を吟味する。文章のリズムや選んだ言葉が「もやもや」に色や形、匂い、感触などを与えて、1つの明確なイメージになる。 絵画だから、人それぞれ使う色もテクニックも違うし、読み取るほうが書き手と同じ手法で描くとは限らない。だからおもしろい。 今まで、私はこの「絵画」をものすごくぞんざいに扱っていた。自分の内面に浮かぶものを、根気よく丁寧に描き出すことができずにいた。 作家じゃなくても、この言葉の絵画をきちんとできる人はたくさんいる。 そういう人を見ていると、「考える」ということを億劫がらないひとなんだなと思う。 めんどくさいなあと思うけれど、きちんと考えないまま発信すると余計な誤解を生んだりしてしまう。 発信された言葉を受け取った時、人は「言葉を理解した」と思う。けれど、同時に、言葉にまとわり付く「匂い」みたいなものも無意識でキャッチしていて、実は言葉の記号そのものよりも「匂い」のほうが一番心の深いところに響いたりする。 この「匂い」って、その人の人間性や深層心理なんじゃないかな、と思う。 だから、言葉でほめられても、ほめた人がものすごく嫉妬していたりしたら受け取った側はほめ言葉に傷つけられるということがあるし、ただ「はぁ」という相槌で「うれしい」とか「悲しい」という感情の悲鳴がびりびりと伝わったりもする。 「私の言っていることが世間的に正しい」という人がくれた倫理的なアドヴァイスより、「君よ、幸せであれ!」と願っているひとがにこっと笑ってくれた、それだけに励まされたりする。 考えたか考えてないか、っていうのは何かを話すときには隠してもばれちゃうなあと思った。 特に、人に何かを頼むとき。友達同士でも、「これ頼むわ、でも見返りはないからね」とか言われたら頼まれた方は「あたしゃ、あんたのドラえもんかよ!」と腹が立つかもしれない。 聞く前に、自分で出来る限りのことをしたかどうか。相手の状況、忙しさとか、頼まれた時の負担とか、考えることはたくさんある。 普段からどれだけそういうことに考えを馳せているかというのが、実際に会ったり話したりした時に、コミュニケーションの実力として発揮される。 上手に出来なくても、かっこ悪くても、考え方が足りなくても、 やろうとした、そういう心意気に、愛情とか友情とかを感じるんだと思う。 長くなりましたが、そんなわけで、特にうそつきで人を困らせたりはしていなかったけれど、元旦に、目標は「正直」と思ったわけです。 普段の会話でいちいち上に書いたようなことを考えていたら疲れてしまうし、受け取ったほうも重い。けれど「正直でいる」というのは、自分をも相手をも敬うことだし、歯磨きと同じように毎日やることなんだろうな、と思っています。 上のXバー、昨日の試験の問題だったんですが、今やり直してみて間違いに気づいた・・・ショック!(出題の文章はLe juge au fils duquel Berthe confiait très souvent ses grands chagrins a finalement quitté Nantes la semaine dernière. 「ベルトがよく自身の深い嘆きを聞いてもらっていた裁判官の息子は、先週ついにナントを発った。」ややこしー。)

« La vie est ailleurs » ①

Il ne me reste que quatre contrôles... et je me sens lourde...enrhumée...?De temps en temps, je m'égare dans cette vie entre des livres que j'entasse, lorsque je ferme le livre que je viens de finir, je sens me laisser en partie dedans. "Il faut que tu le retrouves, me dis-je, sinon tu le perdras à jamais." Mais quel MOI que dois-je donc chercher? Cet énigme me hante depuis toujours...

アイデンティティというものは、どこからくるのだろう。

それは、自分が自分の中で探さなければならないものだとずっと思っていた。 ところが、そうじゃないかもしれない。

「アイデンティティは自分の中にはない。それは人とのつながりの中にある。」

と、山田ズーニーさんは言う。にょろにょろと伸びてきていた思考が、先端で行き詰まっていたような気がしていたのだけれど、この考えは暗闇を切り裂いて新しい道を照らしてくれた。それくらい、すかっとした。

何かを生み出すのは辛い。 まるでもぎ取られるようにわたしは書く。

今になって、わたしはフランス語をなめていたと、思い知らされている。 フランス文学というものを打ち立てたひとりひとりの大作家たちをわたしは本当になめてかかっていた。 すんません。

と、アヴェ・プレヴォの「マノン・レスコー」の本を前にしてあやまったりしている。 すっかり平常心を失った、テスト三昧の今日この頃。

神仕掛けの機械

Deus ex machinaデウセクスマキナ。 Deus   ex    machina デウス  エクス  マキナ 神   ~による  マシーン 直訳すると、「神仕掛けの機械」 またラテン語かとおっしゃらずに。 ラテン語を知らずとも、オデュッセー、イーリアスを読んだことがあれば出くわす言葉です。 (これをジャン・コクトーは「Machine infernale(マシーン・アンフェルナル)」と見事に言い表し戯曲にした。 邦題「地獄の機械」は、あまりいけてないと思う。確かにこのフランス語を訳すのは難しい。ドラえもんのひみつ道具的に言えば 「地獄作り出し機~!」というのが一番ふさわしいのだけれど、それではジャン様は許してくれまい。) デウセクスマキナとは、オリンポスの神々による人間の運命への介入という意味。神様たちは、自分たちの機嫌によって人間にそっぽを向いたり微笑んだり、あっけらかんと人間の生死を決定する。 冒頭からずっと引っ張り続ける「アキレウスの怒り」、ユリシーズの放浪、トロイの陥落、みんな元はといえば女神さま同士の究極の美人争いが原因。人間の倫理とか義理人情とか熱く語られるのだけれど、神様が「やっぱ、もうアイツの味方すんのやーめた」と言えば終了。 人生で、どう考えてもなんかよくわからん力がわたしの思考をストップさせ、どこかに導いているとしか思えないという時がある。そんな時、わたしはこの言葉を思い出す。   今年の大学の授業のオプション選択で「コミュニケーション科学」を選んだのは、わたしにとってはデウセクスマキナだった。 わたしのいるナント大学は3年間の教育プログラム中、2年からは三つの進路に分かれる。現代文学コース、演劇コース、コミュニケーション科学コース。わたしは現代文学コースなのだが、これが一番オプションが多彩で、本来よそのコース専門のものでも参加できる。 1年の最初の集会で、それぞれのコースの説明とオプションの先生の紹介があった。コミュニケーション科学担当の先生はもっさりしてめがねをかけ、いかにも「メディアコメンテーター(なんだそりゃ)」といった風体。話し方、授業の内容、外見を総合してわたしの中では「却下」だった。 ところが2年の初めの登録で、うっかり彼のオプションを取ってしまった。 どうしたことだ。 授業のテーマに唆されたかもしれない。 「Histoire de l'écriture et de la mise en page」 文字とレイアウトの歴史。 授業に行ってみたら大歓迎された。日本人だかららしい。 授業は3時間ぶっ通しなのだが、まさにマルチな造詣の深さを持ち、言葉の端々に遊びをちりばめ、わたしたち生徒を「mes petits amis(わが友)」と呼ぶコルメレ先生の授業は非常に為になる。 そうして、とても大事だなと思ったのは、教える「目的」があるということだ。彼の場合は「生徒が何かを掴む」ために情熱を持って教えている先生だと生徒に伝わってくる。 「教える」は教師というタイトルを持つ人全てに共通する最低限の活動になる。違いは、「教える」を修飾するものに現れる。 「なぜ」教えるのか。「なぜ」の部分にそれぞれの教師の根本的なところが現れる。大学の先生は、インテリなだけで「なぜ」の中に「生徒を導く」という教育には欠かせないキーワードを全く持たない先生がたくさんいる。そういう人にとって、生徒はただのナンバーになってしまう。 明日はフランスのお盆トゥッサン。菊をお供えし、家族で集まる祝日。すでに人の姿は稀で街はしん、としている。 コルメレ先生は、言う。 「明日はじいちゃんばあちゃん、先祖のことを考えなさい!」 ヘブライ語とギリシャ語の発達の違いについて説明しながら、言う。 「レクチャーとは筆者が閉じ込めた言葉を解き放つ行為である。」 いい先生に出会えた神様の介入は、Machine paradisiaque(天国作り出し機)だった。