笹団子日和。
新潟では、こどもの日には柏餅でなく笹団子と聞いたのですが、そうなんでしょうか?
とにかく、母が一日団子職人になることにしたらしく、一日奮闘した結果、70個ぶら下がっています。
途中から手伝いに借り出された私も、菅巻きマシンとなりぐるぐるやりました。
前回の記事で、読んだときに世界が止まる感覚に陥る文章、ということを書きましたが、
初めてその体験をしたのがA.カミュの文だったのを思い出して、暫く忘れていた「CARNETS」の一巻目を開きました。
上手なフランス語の文章の例をたくさん自分の中にストックするために、「う~ん」とうなる文章にぶつかる度に真似していたものですが、カミュの書く文には特別に興味を感じました。
透明度100パーセントの湖を眺めているようなもので、底に映る作者はクリアーに見えるのに、つかもうと水の中に手を伸ばしても、水面に映る姿がゆらゆらするだけ・・・というような、この上なくリアルなのに儚いこの人はいったい普段どんなことを考えているのだろうか?と知りたくなって手にしたのがこのCARNET。「手帳」という意味のタイトルは彼が付けたのではなく、彼の死後に出版されたもの。カミュがつけていた日記で、作品のプロットや旅行中のふとした思い、出会った場面を描いたもので、カミュの脳の断片とも言える。
この本を手に入れた当時、カミュは小説、エッセー、論文、ルポタージュ、戯曲と幅広く文筆活動をしていて、なぜ詩の作品がないのだろう、と不思議だった。
確かに、冷静でシンプルな文体は一見冷たく、途方もなくリアリストのイメージが強い。
今、読み直し始めて気づいたのは、なんでこんなことに気がつかなかったのだろう、彼の紡ぎ出す言葉は小説であれルポであれ、すべてが「詩」だったから、ということ。もともとが詩であり、その上で小説だったり戯曲だったりするのだ、と。
メモのように書いている「手帳」の中では、より自由さが増すので詩の色が強く浮き出る。
Je suis heureux dans ce monde car mon royaume est de ce monde. Nuage qui passe et instant qui pâlit. Mort de moi-même à moi-même. Le livre s'ouvre à une page aimée.
この世界に生まれて幸せだ、なぜならこの世界こそが僕の王国だから。雲が流れ、一瞬が褪せてゆく。僕自身の死、僕自身のための。本の気に入っていたページが風で開かれた。
CARTES I p.22, éd. Gallimard, 1962
詩人・・・どうしようもなく。
「カミュという詩人」てなテーマで研究したらさぞかし面白かろう。すでにありきたりの観点だろうけど。
それにしても、一番わからないのは私のこころで、
いったいこの「詩人」の言葉のどこにこれほど惹かれるのか。
なぜ、こう・・・
そして、なにげなく読んでいた身近な人の文に、知らず全く同じ感覚を抱いていることにやっと気づいた。読む度に、なにか自分の底でさわさわ音がすると思っていたのだけれど。
この未知の才能が欲しい、と思っていたけれど、今はそれを感じ取る人でいたい。