当世日本語気質

今日の小ネタ。

よく寝起きに、哲学的思想とか、思いつきとか、考えても答えが見つからなかったこととかが、まるでイタコかお前は!という位にふっと「降りてくる」ことが、わたしにはとてもよくあります。

寝床のある桟敷(ロフトと大家は言い張るが)から降りた時点で、寝ぼけた頭がはっきりしてくると、そういうかけがえのない「思いついちゃった!」は霞のように消えてしまうので、忘れないように枕元にはいつもメモ用のノートと鉛筆がある。

先週、シーツを換えるときにふとそのノートを見たら、死にそうな字で 「錬金術」 と書いてあった。 どうしたらいいのか、困惑しています。 寝ている間に何かやっちまっていないといいのですが。

えー、もう耳タコです。ほんと。 あたぼうよ、べらぼうめ、こちとらぁ江戸っ子でぃ、とまーれー、いずれへ参る、控えておれぃ、近藤さま、近藤さま! 今、あたくし日本語でしゃべると変な江戸言葉になりそうなんでございます。

DVDが届いたんで始めました、落語翻訳字幕。「なんと寄席」の第一歩。 まずは元本として日本語字幕を作るため高座を文章に起こしているので、好む好まざるに関わらず同じ演目を何度も聞いている。多分一日3回以上は聞いている。 つくづく思うのが、日本語を勉強したい人には落語は本当にすばらしい教材だなぁということ。

なんとなく聞いてアハハと笑って、いろんなことを知る。それも、本の知識なんかじゃなくて、体当たりで。昨今の文化を同時に仕入れることが出来る。生の日本語で。 日本語を知っていたってわからないことはたくさんある。 特に時事ネタだったりすると、日本語が母国語であっても言葉として耳に入ってこない場合もある。 本気で日本語がしゃべれるようになりたいと思っているフランス人のみなさまには落語はお勧めです。 フラ語をしゃべれるようになりたいと思っている日本の方にも、同じく。

最近、本当によく思う。母国語できちんと「考える方法」を知っていなければ、語学(趣味ではなく、本当に使いこなせるようになるレベル)は難しいということ。 結局、問われているのは何語であろうと 「で、あんたはどう思ってんのさ?何が言いたいのさ?」 なんだから。

かつては日本語でなら言えるのに~!!!と思ったりしていたけれど、それは実は言葉の仮面にだまされているだけの話だった。私は、前回も言ったとおり日本語が下手。 さらに、アルファベット圏の言語の仕組みでは「私はこう思う」とストレートに表現せざるを得ないけれど、主語をあえてあいまいにして空気に乗せて伝える日本語は、言語力と共に、コミュニケーション力がもっと必要になるような気がする。

だから、フラ語の感覚そのままでしゃべって日本人に「けんかを売っているのか?」と誤解されたりする。 ただ、主語をはっきりさせてしゃべる癖が付いているだけなんだけど、それだけでもものすごい自己主張になる。 昔は、そういう日本語の「奥ゆかしさ」が、「あー、はっきりしろよ!」とイライラして好きじゃなかった。 フランスに来た当初は、かぶれて「お酌は男がするべし!ワタシはしない。」なんて生意気なことも言っていた。大きな荷物を抱えて困っている女の人を見ても手助けしようとする男性がいないことに、「ひどい!」と憤慨した。

今は、日本が伝統としてずっと持ち続けて、微妙に時代に沿って変化している言葉も、男性と女性の微妙な関係や、周りに対する気遣いなども、本当に好き。 この「好き」は、一種「深い恋愛・友情関係」に似ている。 好きになれない部分も知っていて、改善するべきことだって見えているし、必要とあれば目をつぶったり、付き合ったり、面と向かって「そりゃいかん!」と言ったりできる。叱られたらごめんなさいといえる。

美しいところばっかりじゃなくて、おならしたり、腹が出てたり、貧乳だったり、親父ギャグ連発だったり、酔っ払いだったり、あほだったり、うっかりだったり、 そういうのも含めて「愛情が許す」という感じ。

自分の母国をこういう風に感じることが出来るようになっただけでも、遠くまで来てよかったと思っている。 それに、結局何語でしゃべろうと、そこに表現する「気遣い」とか「マナー」とか「相手に対する意識」とか、そんなのって一緒なんだよなー。

シャワーを浴びながら、「お前は何だってそんな無駄に明るいんだ?」という番頭さんのせりふをフラ語でなんて言ったら笑えるだろうと、ああ言ってみたりこう言ってみたり、そんな私はかなりやばい29歳。ま、こんな人も居てもいいではないか、広い世の中。