最近、更新がことごとく滞っていることへの言い訳。
マニュスクリへの固執。
手で書きたいのです。おもむろに(「おもむろに」、というところがポイント)、鞄からレターパッドを取り出して、ごそごそボールペンも見つけ出して、書くわけです。
今、わたしの中でこの一連の動作が流行っているのです。相変わらず、ル・クレジオを読んでいるから、その影響なのだと思う。
それで、時々、飽きて、逆さまから手紙を書いたりしたいわけだ。
「春が到来をずるずると引き延ばしています。どうぞ寒さにお気をつけて」
とかなんとかいうところから始めるんです。
「逆さま」というのは、私をとても惹きつける概念です。
パソコンのキーボードばかりたたいて文章を作っていると、たまに、全てうそみたいに見えてくる。
そして、手書きだと、きまって信じられない間違いをして無駄に紙を使う。それが妙にリアルに見える。
気がつけば、「待まって」とか「とごろで」とか、どこをどうしたら生まれるのか、生みの親にもわからないシュールな書き損じがテーブルにあふれている。
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翻訳の仕方には色々あって、私のようなキャリアもない、しろうとに毛が生えたようなものがごちゃごちゃ言うのも気が引けるのだけれど、生まれたものは一旦「置いておく」という必要があると思う。
もちろん、もっと適切な言い回しが見つかるとか、推敲の意味で「保存期間」というのは必要なのだけれど、それよりも、単純ミスを発見するための、訳者の脳サイドの「冷却期間」と言っていい。
訳す時にはかなりミオップ(近視)になっていて、単純な時制の訳ミスに気づかなかったりする。話者によっては本当に難解な言い回しをする人もいるので、意味の取り違えに気がつかなかったりというのもある。
冷静になった時に見れば一目瞭然だったりするのに、訳しているときには、色眼鏡をかけているように、不思議と見えない。「部屋の片隅にピンク色の象がいるのに気がつかない」みたいなものです。
この視覚・言語的麻痺状態は、フランス語でレポートや小論文なんかを提出する時に気づいて、それ以来仕事は締め切りより少なくとも1日前には終わらせるように心がけているのですが・・・もともと尻に火がつかないタイプなので、なかなか難しいわけです。
(...)そしてそのあとに作品を一定期間寝かせるという時期(いわゆる養生期間)が必要になってくる。作品を手から離し、しばらく一人にしておいて、そのあいだに自由に息をさせるわけだ。僕は思うのだけれど、長編作家にとって大事な資質のひとつは、どれだけじっと我慢して作品を寝かせられるかということであるまいか。そこで急ぐと、作品の自立的な呼吸は十分でなくなり、酸欠状態になってしまいかねない。
また村上春樹を引き合いに出して申し訳ないのですが、「クリエーション」というレベル云々は別として、根本的な考え方は一緒だと思ったので抜粋しました。生み出した後の作品をどのように捉えるかで、プロかどうかというのがわかるんですね。 ************************* 新潟・フランス協会の編集委員会が文字通り「若返って」、そのチームプロジェクトとしての有能さに畏怖すら感じます(笑)。 こういう人たちが編集に付いてくれれば、作家も助かるわな、と思います。その辣腕さで、連載「ナントところどころ」の締め切りもきちりと抑えられるところに、私なんかは「畏」も「怖」も感じたりもするわけです。今のところ、締め切りは破っていません。 (連載は協会HPの会報PDFで読むことが出来ます。読み込みに多少時間がかかる場合があります)